ロボットトラベル
昨日は、雲一つない青空で一匹の白いハトが優雅に飛んでいた日だった。ビルばかりの都市で、日の光が当たらない路地に住む者にとっては、あのハトは希望に見えたのだろうか。
「日記、書き終わったか?」
「はい。ご主人様。」
コーヒーを片手に持った背の高い男が足速にロボットに近づいた。座っていたロボットは少し緊張し、背筋を伸ばす。男はパソコンの画面に映る日記を丁寧に確認していた。確認をしていくうちに、男の表情は柔らかくなっていった。
「ありがと、クレモス。こんなにエッセイ感が溢れている日記を見たら、皆驚くだろうな。じゃ、後はいつもどおりよろしく。」コーヒーを一気に飲み込み男は去っていった。秘書ロボットクレモスは、勿論秘書の仕事をするのだが、雇っている男は自宅で仕事をこなし、しかも恐ろしい程手際が良く、クレモスに任せている仕事は家事と日記の記入代行だけだった。もはやお手伝いロボットである。明日もまた同じような流れだろう。クレモスは窓を見つめながらそう感じた。
夜、男のベッドの側に水の入ったコップを置く仕事を終わらせるために、エレベーターで寝室へと向かった。
しかしその途中
「緊急事態発生!緊張事態発生!直ちに町から避難してください。」突如大きい音量のアナウンスが流れ、エレベーターが止まってしまった。クレモスは困惑していた。何故なら自身についている筈の緊急事対応システムが作動していないのだ。地震も起きていないが、ロボット製造会社の想定を遥かに超える災害なのだろう。考えているうちに、彼は男の事が心配になった。
エレベーターのボタン下にある小さな窓を開き、接続ポートを露出させる。そこに自身の人差し指を差し込んだ。完全に停止していたエレベーターが動き出す。扉が開くと、クレモスはご主人の部屋へと急いだ。
「ご主人様、起きてください。ご主人様」
揺り動かすと、しばらくして男はゆっくりとまぶたを開いた。
「どうした、クレモス?」
眠い目をこすりながら男が起き上がる。
「落ち着いている場合ではありません、ご主人様」
クレモスは慌てたように首をくるくるとまわし、先ほどの緊急事態警報のことと、自身のシステムが作動しなかったことを話した。
「とにかく落ち着くんだ、クレモス。俺も端末で調べてみる。お前も情報収集をしてみてくれ」
「はい! 喜んで、ご主人様」
クレモスは元気に返事をすると、部屋の隅にあるロボット制作会社の端末に接続するドックに入った。
普段簡易な家事の仕事しかしていなかったクレモスには、久々のロボットらしい仕事だ。不謹慎ではあるが、ご主人に存在価値を再認識されたようでうれしかった。
ドックの接続部分に、自身の腰の辺りにあるコネクターを連結する。
クレモスはしびれるようなデータの流れを感じて、ロボットながら恍惚とした表情を浮かべた。
この機械はクレモスのアップデートや充電、そして重要な情報を伝達してくれるものだ。多少の情報なら無線で最新情報を取得できるが、膨大なデータから何かを検索する場合などは、ドックに連結したほうが数十倍速い。
クレモスは目から特殊な光を放出して、眼前にモニターを映し出す。
画面はめまぐるしく様々な映像を映し出し、やがて星の映像を映したところで停止した。
「ナニカ ガ セマッテイル ヨウ デス。ソレニヨリ カセイ ホウメン ニ セッチサレタ ワクセイ ボウエイ ライン ノ センサー ガ ハツドウ シ ケイホウ ガ ナガレタ モヨウ デス」
クラシックモードに設定した端末から、たどたどしいアナウンスが流れる。
「クレモス、音声モードをノーマルに切り替えてくれ」
普段は懐かしい雰囲気を楽しむのに効果的なクラシックモードも、緊急の情報を素早く知りたいときには向いていない、とご主人に判断されたらしい。クレモスは女性の音声のこのクラシックな雰囲気が嫌いではなかった。だがご主人がそういうのだから仕方がない。
「了解しました。ご主人さま。音声をノーマルモードに切り替えます」
クレモスが設定を切り替えると、端末からのアナウンスは一変した。
「火星方面に設置された惑星防衛ラインのセンサーが、未確認の物体を検知しました。その物体は驚異的な速度で地球に接近しています。防衛ラインは迎撃を開始しましたが、現在まで有効な打撃を与えられていません。この物体は、地球の技術では対処不能なレベルの脅威と判断されます。全市民に即時避難を推奨します。繰り返します。全市民に…ガガピピーッ」
アナウンスが異音を出しながら途中で途切れた。ドックに接続されているにも関わらず、最新の情報を得ることができなくなってしまったのだ。
「クレモス、もういい。端末接続を外して。それより、あの警報、もう聞こえないな」
ご主人はそう言って、窓から外の様子をうかがっていた。クレモスも窓に近づく。
空の様子は明らかに異常だった。
そこに浮かんでいたのは、人がすっぽり入れるほどのサイズの、シャボン玉のような半透明の物体が多数。それがゆらゆらと、まるで風船のように静かに街の上空を漂っている。一見すると美しい光景だが、その物体が放つ光はどこか不気味だった。
「あれが、UFOか…?」
ご主人のつぶやきに、クレモスは無言で首を縦に振る。そのシャボン玉は不規則な動きでふわりと浮遊しながら、時折、地上に向かって降りていく。そして、地上に近づいたかと思うと、その半透明の膜が変形し、まるで口を開けるように大きく広がる。
クレモスの視界の隅で、そのUFOの一つが地上に降り立ち、道行く人々を追いかけ始めた。その対象は、まるで選別されたかのように、皆、がっしりとした体格の男ばかりだった。
野太い悲鳴が聞こえる。
UFOは標的となった男の一人を膜の中に吸い込むと、何事もなかったかのように再び空へと上昇していく。
「クレモス、これはまずい。どうする?」
クレモスは即座に状況を分析した。このUFOは男性、特に体格のいい男だけを狙って捕獲している。自分たちの近くを漂っているUFOの動きも注意深く見守る。もし、このままここにいれば、いつかはご主人も標的になるだろう。
「ご主人様、とにかくここから離れましょう。私は…」
クレモスがそう言いかけたときだった。すぐ目の前にUFOが迫ってきた。
その半透明なシャボン玉のような物体は窓ガラスに触れると、まるで酸のようにガラスを溶かし始めた。
ジジジ…という耳障りな音と共にガラスが瞬く間に白く濁り、やがて穴が開く。
その穴は驚くべき速度で広がり、UFOはまるで流動体のように部屋の中へと侵入してきた。
クレモス自身のプログラムを限界までオーバードライブさせた。
体内に仕込まれた小型ブースターを駆動させ、床を蹴る。
そしてそのままUFOに体当たりした。普段は家事用の軟性素材でできた体だが、緊急時には硬化するよう設定されていたためUFOは一瞬ひしゃげた。
衝撃はあったものの、その半透明の膜は破れることはない。逆にクレモスを捕らえようと膜の一部がうねり始める。
「ご主人様!急いで裏口から!私が時間を稼ぎます!」
クレモスには、その声が主人に届いたかわからない。虹色に滲む油膜が、UFOと外界とを一瞬にして隔てたのだ。膜は見た目に反して強靭で、鋼鉄とアルミ合金で構成されたクレモスを軽々と支え、何かの意思に従うかのように上へ上へと吸い上げられてゆく。
「ご主人……」
彼が映る画像素子が一つもなくなるまで、クレモスはじっと見上げ続けるご主人を見つめ返していた。
シャボン玉は何の説明も、何のアクションも起こさず、ただただ上空へと、クレモスや他のシャボン玉に閉じ込められた人たちを連れ去ってゆく。
油膜を蹴りつけたり、逃れようと暴れていた人々も当初は居た。だが、数十メートル上空で突如シャボンが割れ弾け、そのまま悲鳴とともに落ちていく犠牲者を見た後では、よっぽど自暴自棄になったもの以外は絶望に涙するほかなかった。だが、クレモスは脱出の希望を失っていない。
「シャボンは割れるのだ。そして、私の耐久力なら耐えられるはず」
空の高みに、ゆるやかに波打つ闇色の塊が浮かんでいた。
それは雲のように見えながら、明らかに意思を持って動いていた。無数の触手がその表層から生え、先端は巨大なラッパのように花開いている。
その口の一つが、ゆっくりと震えた。
周囲に散っていた半透明のシャボン玉が、ふわりと同じ方向へ揺れ始める。空気の流れが変わったのだ。
吸い寄せられるように、数個のシャボンがラッパ状の先端部へと引き込まれていく。
クレモスの高性能マイクは外部の音を捉えていた。他のシャボン玉に閉じ込められた人々の悲鳴が重なり合っている。
「助けてくれ!」「出せ!」「あんなのに食べられたくない!」
恐怖に駆られた男達の野太い叫びが重なり合い、遠い雷鳴のように響く。
やがて、男を内包したシャボン玉の一つがラッパ状の先端部へ到達する。男の悲鳴が最高潮に達した刹那。
ゴボリッ…ズチュゥウウ…
凄まじい水音と共に、中の男が撹拌される。シャボン玉は脈打つように膨縮を繰り返す。
かき回されている男はやすやすと素っ裸になっていた。