非公開 光と闇
光と闇、太陽と地獄、生命と死の海。
この3つが合わさって、『世界』という形を成している。
「…さて、じゃあ次は何をしようかな。」
世界の形は分かったし、一通りのことはやったと思う。
ーー他になにかするべきことがあるだろうか?
ーーーーーーーーー
ーー2022年7月15日
この日、オレは大学を休んでいた。
頭痛と息苦しさに顔を歪めながらも常とは異なる非現実的な静寂に包まれて心はとても穏やかだった。
眠る前に枕横に置いたスマホを引き寄せるとぼんやりとした視界の中に『AM10:35』とデジタル数字が映し出される。
平日のこの時間帯に「静かだ」と感じたのは何年ぶりだろう。中学までは熱を出すと母親が甲斐甲斐しく看病をしてくれていたが、地元を離れて一人暮らしを始めてからは長いこと風邪を引くこともなかった。いや、風邪を引いている暇さえなかったのかもしれない。
ーーピピピ、と鳴り響いた電子音の先に手を伸ばし脇下に挟んでいた体温計を確認すると液晶の小窓には『38.6℃』の文字。
「やば、全然下がってねぇ…。」
でもまあ明日は土曜日だしこのまま寝まくりゃいいかとか、熱あんのにちょい腹減ったなとか、心地良いくせに寂しいなとか、あれこれ思考を巡らせる中浮かんだのはアイツの顔。無意識に天井に向けて手を伸ばすと不器用な笑顔と目が合ってオレは思わず吹き出してしまう。
「あの時もあんな顔してたな…」
伸ばした手を布団に落とし、自暴自棄になっていた半年前からこれまでのことを思い返しながら安堵した表情で意識を手放すのだった。
ーーあれから何時間眠っていたのだろう。暗闇を覚悟して目を覚ますも室内は仄かな明かりで照らされまだ夕方くらいだろうかと上半身を起こして辺りを見渡す。
「あっ、ワリ…ッ眩しかったか!?!」
そこにはおたまを持ったアイツが慌てた様子で立っていた。オレはそれを見て盛大に笑ってしまったが漂って来た味噌汁の香りに同じくらい盛大に腹の虫を響かせてしまった。
『PM19:55』
まだ蝉が鳴き出す前の初夏の日の出来事。
夜空に輝く一番星より煌びやかに二人の時間が輝いていた。
大きな入道雲をクーラーの効いた部屋の窓際からじっと見つめる。
外で大合唱している蝉の声が頭にじんわりと響く。
授業もバイトもない夏休みのある一日、ベッドに横になって暇を持て余していた。
ガチャッと玄関のドアが開いた音が聞こえた。
バイト帰りに食材の買い出しに行ったアイツが帰ってきたようだ。足音がこちらへ向かってくる。そして、予想してなかった言葉が降ってきた。
「なぁ、流しそうめんしようぜ!!」
「…………………………んん?」
驚いて振り返るとアイツの腕の中には買い物袋と、アイツの身長くらいの、半分に割られた竹があった。アイツはそれを置くと、そうめんを茹でる準備をし始めた。
商店街の人曰く、処分しようとしてずっと置いてあったそうだ。それを少しくれたらしい。
そういえば商店街で先月七夕のイベントをしてたな。たくさんの願い事が飾ってあった。アイツも願い事を書いて一番高いところに飾ろうと必死になっていたのを思い出し、フッと笑った。
「家の前の空き地、使っていいってさー!」
どうやら帰ってくる前に大家さんとは交渉済みだったらしい。この家の家主はオレのはずだが、いつの間にかオレよりも大家さんと仲良くなっていた。
アイツはいつもそうだ、商店街へ食材を買い出しに行ったと思えば、いろんなお店でおまけをつけてもらって帰ってくる。一人暮らし用の小さな冷蔵庫はありがたいことにお裾分けでいっぱいだ。
大学でも、そう。アイツの周りはいつも笑い声で賑わっている。オレと一緒にいるのが不思議なくらいだ。アイツと知り合ったのは、そう……
「うわーーー!!!どうしよう!!!」
何分経っただろう。オレがボーっと考え事してる間にそうめんを茹でていた。ぐつぐつ音を立てる鍋からは泡が吹きこぼれていた。オレはやっとベッドから降り、急いでコンロの火を止め、鍋の中を覗いてみる。
「待て、これ何人分だ?」
「2人!」
2人にしては明らかに多い、さては適当に入れたな。ため息をつきながらオレは大量のそうめんをざるに移し、水で粗熱をとっていく。水が冷たく気持ちがいい。
ーーーー
空き地に出ると地面には木漏れ日が揺れている。日陰だが暑く、動いてなくても汗が出てくる。
流しそうめんなんて今までやったことないので想像しながら、家にあるあらゆるものを使って竹を斜めにしていく。アイツはずっと鼻歌を歌っていて楽しそうだ。
「あちー!いつになったら涼しくなるんだろうなー!」
「そうだなー…。」
いつになったら涼しくなるだろうなんて毎年この時期になると毎日のように考えていた。でも、今年はアイツと一緒だ。
今年の夏は、アイツが急に海に行こうって言い出して海に行った。テレビで特集してたかき氷を見ては食べたい!といい食べに行った。商店街に貼ってあったチラシを見つけ、近くのこぢんまりとした祭にも行った。
今日も、アイツがいなかったら流しそうめんなんてやっていなかった。竹に流しても味変わんないだろ、なんて思いながらクーラーの効いた部屋で啜ってただろう。
早く涼しくなってほしいと思っていた夏も、アイツと一緒なら悪くないと思えてしまう。
「よし!準備できた!やってみよ!!」
「ああ。」
あと何個、この夏の思い出をアイツと増やせるだろうか。
眺めていた入道雲もいつの間にか形を変えて、どこかに流れていっていた。
平日の朝。
オレは大学の講義を受けるために家を出た。
大学は家から10分程歩いたところにある。実家を出て一人暮らしを始めた時に、どうせなら大学から近いところが良いと、今の家を選んだのだ。
この近さ故に、友人たちの溜まり場になっているのは言うまでもない。
今日はいつもより気温が高い。
青々と茂った草木も枯れてしまいそうな程の熱気が全身を包み込む。
ジリジリと焼けるような日差しが眩しくて、思わず目を瞑った。
家を出てからまだほんの少しだというのに、じわりと汗がにじみ出す。
クーラーの効いた部屋へ今すぐ引き返したい気持ちを、必死に掻き消しながらオレは歩調を速めた。
大通りに出ると、徐々に同じ目的地へ向かって歩く学生たちがちらほら見えてきた。
視界の先に見覚えのある背中が映る。
あれは、同じ学部のヤマダだ。
「おはよ」
「おはよう。あれ、珍しい。今日はアイツと一緒じゃないんだ?」
「そんなにいつも一緒じゃねえよ。」
「いや、大体一緒にいるだろ。お前たちほんとに仲良しだよな〜。」
「はは…」
仲良し、と改めて言われると、少しだけむず痒くなった。
アイツは明るくて人懐っこい性格だから、友人が多い。
それなのに、オレのことをやけに気にかけてくれる。
オレはそれがずっと不思議だった。
アイツなら、他にも気の合う奴なんていくらでもいるはずだ。
見た目も悪くないので、女子にもそこそこモテるだろう。
実際に…、高校の時だったか。アイツのことを慕っている控えめな女子何人かにバレンタインチョコを押し付けられて、代わりにアイツに渡してくれと頼まれたことだってあった。
オレがそのチョコを渡してやると、アイツは何とも言えない顔で受け取ってたっけ。
アイツとはだいぶ付き合いが長いが、そういえばアイツに彼女ができたところを見たことはない。
オレとつるんでいる暇があったら彼女の一人や二人でも作ればいいのに、と思う。
もしかして、モテないオレに気遣って、遠慮しているのか。
「なあ。それより今日、バイトで知り合った子の知り合いと合コンするんだけど、お前も来てくれない?だいぶ人数足りなくなっちゃってさ〜。」
「え…。合コン?」
「まあ合コンって言ってもただの飲み会なんだけどさ、お前もそろそろ彼女ほしいだろ〜?」
突然の誘いに、オレは少し動揺した。
彼女がほしいかと聞かれると、欲しくなくはない…とは思うが、正直あまりピンと来なかった。
だが、もしかしてこれは良い機会なのかも、とも思った。
「なあ、それ、アイツにも声かけていいか?」
「アイツ?ああ、もちろんいいよ。6時に駅に集合な!」
「わかった。」
オレは、アイツに連絡するためにスマホを手に取った。
『行かない』
ロック画面に表示された通知は、いつものアイツからは考えられないくらい淡々としていた。
想定していなかった返信の早さと内容に動揺した。どうしよう、どう返そう。悩んでいる内にまたスマホが振動する。
『樹は行くの?なんで?』
首を焼く陽の光が暑い。通りすがる人達の声はやけに遠く聞こえる。
たった数文字の羅列が何故か自分を責め立てているように思えて、困惑と焦りがじわじわと脈拍を早くしていった。
なんで・・・?なんでだっけ。いや、そうだ山田が困ってるから・・・
汗をかいた手がスマホを取り落とさないように握り直し、返事を考えながらロックを解除してトークアプリを開く。
「 ・・・・・・え?」
通知に表示されていたはずの言葉はどこにもなく、代わりに『hinataがメッセージの送信を取り消しました』というシステムメッセージが2つ連続で並んでいた。
・・・・・・誤送した?いや確かにさっきの文章には自分の名前が含まれていた。誰かと間違えた訳ではないはずだ。
トーク画面を開いたまま何を送る事もできずにいると、振動と共にメッセージが表示された。
『ごめん行けない〜!風邪引いた!』
間を置かず名前の分からないゆるいキャラクターが泣きながら布団で寝ているスタンプが送られてくる。
いつものアイツと同じテンションだった。
もしかしたら、風邪を引いてぼんやりとした意識の中で返信したからさっきのメッセージはあんなに淡白だったのかもしれない。
そう自分の中で飲み込んで『了解、お大事に。』と話を切り上げる言葉を打ち込もうとした瞬間、画面が切り替わってアイツからの通話を知らせる長い振動が掌を震わせた。ほとんど反射的に緑色のボタンを押してスマホを耳に当てる。
「もしもし?」
『・・・・・・あれ、ごめん樹?間違えて通話押しちゃった』
マスクを着けているのか声がいつもよりくぐもって聞こえる。
「いや、こっちこそごめん。体調悪いのの知らなくて・・・・・・大丈夫か?」
『あー・・・・・・うん大丈夫。熱はだいぶ下がった。』
良かった、と言いかけたが、小さく溢された『腹減った』という言葉に安堵の気持ちが掻き消された。
「え?ちゃんと飯食ってる?」
『怠くてなんも食ってない〜』
ハハ、と笑いながらため息を吐くような声色。
「大丈夫って言わないだろそれ。何か買って行こうか?」
『いや、いいよ。移すかもしれないし・・・・・・お前合コン行くんだろ?』
・・・・・・そうだった。そもそもその為にメッセージを送ったのだ。
でも、新しい出会いや楽しいのかも分からない飲み会と友人の体調を天秤にかければどちらに傾くのかは明白だった。
「いいって。行くかどうか迷ってたし、ただの人数合わせだから。山田に連絡してそっち行くわ。」
『・・・・・・そっか。なんか悪いなぁ。女の子との出会いを奪ってオレが樹のお手製おかゆを独り占め・・・・・・』
わざとらしいしょんぼりした声に笑って薬局でレトルトを買っていくと伝えると、向こうもまた笑っていた。
『ありがと。じゃあ、待ってる。』
「うん、ちゃんと寝とけよ。」
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通話の切れた画面を見つめる。
焦って送ったメッセージをあいつは見てしまっただろうか。
でも、来てくれる。先に取り付けたはずの誘いを断って。
震えそうな手でスマホを強く握って呟いた。
「よかった・・・・・・」
誰にも、神様にも聞こえないように、小さな声で。
樹と出会ったのは、小学五年生の時だった。
理由はなんてことはないありがちな話で、親の転勤だった。オレは齢十歳にして、生まれ故郷を離れることになった。
当時のオレの世界は家族と学校だけで構成されていたから、自分の意思に反してその地を離れることに強い忌避感があった。しかし小学生のオレに出来ることなどない。情けなさを噛み締めながら、その運命を受け入れた。築いてきた地位も名誉も失うような絶望がオレを支配して、転校先の学校なんて敵地も同然だった。
地元の友達との悲劇的な別れを経て、オレは背の高いビルが立ち並ぶ都会へとやってきた。空気がまずくて驚いた。
オレはなんて可哀想なんだと自分を憐れみながら新天地の小学校へ向かう転校初日。小学五年生の夏休み前だ。もうグループなんて出来上がっていて、今更友達なんてできるわけがない。小学生のオレたちの世界はシビアなんだ。嗚呼、オレは孤独な戦士。オレの味方は地元の友人だけ。
ちょっと早めに厨二病を発病したオレは、斜に構えていた。
しかし、都会の小学生は心が広かった。初対面のオレにも臆せず声をかけてくる。コミュニケーション強者ども。その圧倒的な勢いに気圧されまごつくオレの手を掴んで群がるクラスメイトの中から引っ張り出し、
「テンコーセーがびっくりしてるからやめてやれよ!」と彼らを一蹴したのが樹だった。
驚いた。
世界が拓けたような感覚があった
「オレは樹。よろしくな、日向」
笑顔を向けられて、そのあまりの眩しさにオレの中の厨二病はあっという間に白旗を揚げた。
「うん……よろしく……」
===
そこからオレと樹のエピソードは始まるわけだが、歴史がありすぎて語り尽くすのは難しい。
けれど、どれかひとつだけ樹との思い出を挙げるとすれば、出会って一週間くらい経ったあの日の放課後しかないと思う。
一週間では新天地に馴染むのは難しいが、なんとなくこの新しい世界の空気に理解が及び始めた頃。
夏休み目前のオレたちは浮き足立っていて、いつまで経っても暗くならないのを良いことに夕飯の時間を越えても遊んでいた。今思えば、オレたちは出会った時から面白いくらいに気が合った。
「樹が元々いたのってどんなとこ?」
「んー……海が綺麗なとこ」
「海?」
「海沿いの街だったんだ。ビーナスベルトって知ってる?」
樹を見ると、彼はきょとんとして首を振った。
オレは空に向けて手を伸ばし、得意げになって話す。
「日の出前や日没直後に、空がピンクになるんだ。オレ、それを見るのが好きだったんだ」
「空がピンクになるの?」
「うん、理由は知らないんだけど、それがすげー綺麗でさ。だから、近くに海がなくなってちょっと寂しい」
「……いいなぁ。オレも見てみたい」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ、いつか行こう。連れて行くよ、オレが生まれた町に」
「うん、見てみたい。日向が生まれた町。約束な」
「おう」
オレたちは細っこい子どもの指で指切りを交わした。
この時オレはなぜか、漠然と、この先もずっと樹と一緒にいるんだろうなと思った。
===
インターホンが鳴り、重い身体を起こして玄関に向かう。
誰が来たのかはわかっていたからモニターでは確認しなかった。
玄関でサンダルを突っ掛けて、ドアを開ける。
ドアを開けると、そこに立っていた樹と目が合った。じぃっとオレの目を見つめてくる。表情が読めない。
「樹?」
呼びかけると「入れて」と短く言うので、身体を斜めにして樹が通れるスペースを作ってやった。もう数えきれないくらいこの部屋に上がっている樹は、勝手知ったる我が家と言わんばかりに洗面所に向かい手を洗い、戻ってくる。そして、まだ若干湿っている掌でオレの額に触れた。
軽く前髪を払い、ぺたりと掌を押し当てる。冷たくて気持ちよかった。
「…………熱、下がってるね」
どうやら掌を使ってオレの体温を測っていたらしい。
「下がったって、言ったじゃん、電話で……」
オレはというと、樹の急な行動にびっくりして固まっていたし、言葉もうまく発せなかった。当然だろ、好きなやつに触れられて戸惑わないやつなんていない。
「そうだけどさー、日向はすぐ無理するから」
「樹ほどじゃないと思うけど……」
「えー? ま、でもちょっと具合悪そうだからまだ寝てろよ。色々買ってきたし、お粥も作ってやるし」
「作るって言ってもレトルトだろ……」
「ちっちっちっ、あまいな、日向」
「うん……?」
何言ってんだコイツ、と訝しむと、得意げになった樹は持ったままのレジ袋から飛び出していたネギを掴み掲げた。
「じゃーん! ネギ!」
「うん。なんで袋からネギ生えてんのかなぁとは思ってたよ」
「やっぱなーネギだけは切り立てが美味いと思うんだよ、オレ」
「…………」
「レトルトのお粥に切り立てのネギ。パーフェクトプランじゃね?」
「プランではないかなぁ」
「パーフェクト……クッキング……?」
「ネギを切ることをクッキングと呼ぶならそうだね」
「難しい問題だ……うんうん。台所借りるなー。お前は寝てろよー」
「はいはい」
くるりと身体の向きを変えて樹が台所に向かったので、オレはベッドに戻る。
この何気ないやりとりが心地いい。こうやって軽口を叩いている時が一番楽しい。
先ほどのメッセージをもし樹が見ていたらと思ってヒヤヒヤしていたけれど、いつも通りだったから見ていないのかもしれない。そうだったら良い。
合コンという言葉に過剰反応して咄嗟に返事を送ってしまった。行くなという勇気もないくせに、誰かに取られそうになったら理性が効かなくなる。みっともない。
ひとり暮らしの部屋に、自分以外の気配がある。その気配が樹だというだけでこんなにも心が震える。微かな生活音が響くこの時間を手放したくない。
「おまたせー」
程なく、あたたまったお粥を持って樹がベッドの隣にやってくる。
身体を起こすと、おかゆを取り分けた小さな器を差し出された。こういう細やかなところに、樹の育ちの良さが出ていると思う。
「熱いから気をつけろよ」
「ん、ありがと」
受け取ったお粥を食べようと、スプーンを手に取った。
「……なあ、日向」
「うん?」
呼ばれたので、振り向く。自然な流れだった。
視界に入った樹は、どことなく神妙な面持ちだった。
「さっきの、さ」
あ、これ嫌なやつだ。直感的にわかってしまった。
「日向って、合コンとか、嫌いだっけ……?」
さあ、っと血の気が引いた。
あのメッセージ、見てしまっていたらしい。
息が詰まって、言葉が出てこない。
「……別に、嫌いじゃないけど……」
けどなんだよ、と迂闊な自分に怒りが湧いた。