煩悩水滸伝
元日である。日付けを跨ぐ頃合に遠くの寺が鐘を鳴らし夜中だと言うのに寒空の下にぎわう人々を戒め文字通り警鐘を響かせていた。
たかが鉦を打つ音。それで人を煩わせる悩みを払えるのなら苦労はない。
初詣に足を向ける五兵典人は間延びした低い金属の音を鼻で笑った。
五兵典人は取り立てて神仏を信奉するでもなく習慣として社に行く程度だが願いを聞いて貰えるなら願うだけ願おう、という世間一般的な信心の持ち主であった。
あと一年もすれば受験戦争に身を投じなければならぬ。こうやってのんびり近所を歩いていられる暇もじきになくなるだろう。
実際、気の早い友人は偏差値の高い大学に入るために夏から塾などに通い始め遊ぼうと気軽に言える知人はめっきり減ってしまっている。
そんなわけで僅かばかりの寂寥が大して頼りにしていない地元の神様に挨拶をする気まぐれを起こし、今年はひとりで神社を詣でることにしたのだ。
この道通りは普段から人通り少なく深夜であれば尚更なのだが、ふと前方に人気を感じぶつかってはいけないとアスファルトに落としていた視線を上げる。
するとどうだろう。たしかに手足があり頭もあり目鼻口らしきものもある人の形をしたものがあった。ただ、それに加えて一対の角があり身体中に毛がありしかも服を着ていなかった。
明らかに関わってはいけないような人種である。
絡まれてはコトだ、と典人は再び目を伏せてやり過ごそうとする。しかし、毛むくじゃらの人は構わず話しかけてきた。
「我が名は無明。知るべきを識らず、知らずを領る十二因縁の根である」
何を言っているのか分からない。
反応すべきではないのだろう。とはいえ、ほとんど反射的だったので抑えることができずまた角のある人に視線を向けてしまった。だが、怪訝な顔を見せる前になぜかその人は消えていた。
悪戯や暇つぶしの類に違いない。そう思うことにして頭を軽く振り神社への路を急ぐことにする。ちょっとこの辺も治安が悪くなったものである。
そのとき、夜明けでもないのに空がにわかに白み光った気がした。それも一瞬のことで、さっきの人と同じようにすぐに何事もなくいつもの星が見えるような見えないような冴えない夜空に戻っていた。
何かの兆しのようであり、同時に不吉なものを予感させる良くない光であった。