番狂わせ
番狂わせ。
この言葉には何度会うのだろう。
しかも、何度あっても飽きさせない言葉だ。裏切り?違うだろう。
裏切りとは人間を絶望させることだ。確かに番狂わせで人生が変わったしまったひともいるだろう。番狂わせほど、その人間の愚かさが分かるものだ。
ここに一人の男がいる。
この男もよく番狂わせに起こる。でも、本人はお構いなし、何があろうと動じない。
人間の人生は、番狂わせの連続だ。自分の意志に関係なく、おきてくる。
そんな男でもあの番狂わせには正直焦った。本人もこれが最後かと思ったほどだ。
「矛田君、突然で悪いが君にはこれからロシアに飛んでもらう」
正直自分の耳を疑った。一瞬言われた意味が理解できず、目の前に座る男の眉間に鎮座する、大きな黒子が喋ったのかと思ったほどだ。前期における社内の営業成績もトップとなり、3期連続の頭どりを達成したわけだ。それもあって、ロンドン勤務は俺か盾野のどちらかになるだろうとの下馬評は、まんざらでもないと思っていた矢先の内示である。
「このところの君の成績を見れば、当然ロンドン若しくはNY勤務となるのが道筋だと思うが、ある人からの強い要請があってね」
実はこの矛田。絶対、他人には言えない悩みがある。それは大人の夜尿症、つまり「おねしょ」だ。翌日に重要案件がある時に必ずと言っていいほど、おねしょをしてしまう。どうにも治る気配が無いようだ。仕事のパフォーマンスぶりからは到底、想像できまい。自分でも想像を絶しているぐらいだ。仕事だけならまだいいが…。そう。真に困っているのは女性関係。考えただけでもちびってしまいそうだ。結婚もせず、女性と付き合うこともないまま生きてきた理由は紛れもなくおねしょのせい。宿泊したらサヨナラされる。100%の確率だ。
(俺がロシアか…)
オネショの悩みを抱えつつも出世コースのロシア赴任は矛田にとって絶好のチャンスである。独身で良かった、と心から喜べるのは今日が初めてだ。
さて、多少の悩みは抱えつつも同期からの羨望の眼差しは矛田の背中を押してくれた。俺の股間が夜中にワガママになってしまうのも可愛いもんだ。なんの問題もない。
…しかし何故ロシアなんだ?
ロンドンかNY、今までの経験上この2つのルートしかなかったはずだが…
「外務省だよ」本部長は目を細めながら
「エーロイ・マラガスキー氏に会ってきてもらいたい」 矛田の耳元で囁いた。
ロシアと我が国の関係は、危機的なものとなってしまっている。企業はおろか、外交官まで帰国を余儀なくされている状況下において、マラガスキー氏は名前こそ知られていないが、オリガルヒの要衝であるのと同時に、反政府勢力の影の代表でもある。
「しかし、なぜ私が…」矛田は問うた。
「キミ、迫られたらしいね、マラガスキー氏のご令嬢に。しかもそれ断ったとか…」
悪夢だ…あの時の金髪グラマーが…まさか…
彼女と出会ったのはロンドンでの立食パーティで、マラガスキー氏から紹介されての事だった。
彼女はスージーと名乗った。
一目惚れなどと言うものに縁がない矛田だったが、人生で初めての一目惚れをした。2人は瞬く間に心を通じ合わせ2人でパーティを抜け出した。
ホテルのバーに行き2人で語らい、価値観や意見の合い方に驚いた。そこから先は想像に難しくないだろう。
2人はそのホテルで肌を重ねた。
アルコールによる利尿作用の事など忘れて。
ベッドに描かれた地図を眺めた彼女の顔が今も忘れられない。「断った…か」
まさかロシアの地図とはね。シーツを見ながら、予田はフッと笑った。
ロシアは一種の番狂わせだと思っている。今、ある地域で問題が起きているが、
昔の大国と言われた国が手こずっている。時代が変わったもんだ。
ある日、同僚から
「映画の『ひまわり』て知ってるかい」
「ソフィア・ローレンの?」
「あのひまわり畑は今でいうウクライナらしいね」
今度の仕事にウクライナ情勢は関わるのか?あと一週間後にはロシア。
エーロイ・マガラスキー氏と会わない限りは情報が分からない
エーロイに関しては、随分と妙な噂が流れていた。オルガルヒの中では、中の上辺りに位置する財力だが、何故か情報は群を抜いていると言うのだ。西側諸国は言うに及ばすロシアが最も憂慮しているNATO非加盟国情勢に通じていて、時にはFSBを出し抜く事さえあると言う。
「それと一つ言い忘れたが、今回は盾野君と一緒に行ってもらうよ」本部長は意地悪気に右眉を吊り上げ、こちらの反応を窺い楽しむ様に見つめている。「何せ、盾野君はロシア語のエキスパートだからね。君とは良いコンビなるはずだよ」思わず小さく舌打ちした。
盾野はほくそ笑んだ。
「ほーら。俺にもお役目が回ってきただろ。」
当然と言えば当然だ。ロシア語が堪能なのは俺だけだから。さすがに矛田だけでは無理だろ。
今まで矛田にはいつも重要な任務を奪われた。これまで目の前で何度掠めとられたことか。実力なら互角なはずなのに。俺と矛田で何が違うんだよ。まったく。
コンビとは言われたが、さしずめ俺はウクライナ陣営ということか。今回こそはあいつに負けられないんだよ。何か妙案は無いだろうか?エーロイ・マラガスキー…。どうしたら懐に飛び込める?ん!これだ!思いついた!
「こんばんは、何を飲まれてますか?」
矛田はマラガスキーの行きつけのbar情報を手に入れ、それから2週間様々な店に待ち伏せをし、今日初めてビンゴした。『バリザムが好きでねぇ。養命酒とも呼ばれてるんだ。何せ体が最近言うことを聞かなくて』
「ほう!マスター、私にも同じものをください。奇遇ですね、私の体も夜になると言うことを聞かなくて…」
『君もか?いやぁ、仕事柄、日中気を張りすぎてしまいどうしても夜が…ねぇ』
「ゆるく…なりますね」
気が付けば矛田はマラ氏の門を掘っていた。番狂わせとはこういう事か