空に咲け! マジカル・アンジュ!
空に咲く花はあまりに綺麗だった。
のどかな景色に身を包み、川の堤防に寝転ぶ少女――市川はるか。
彼女はどこにでもいるような何の変哲もない中学生だった。未曾有の感染症が流行る前、小学生の頃は近所の友達とゲームをしたり、雑談をしたりしていた。けれど、自粛の相次ぐ中、そういった交流はめっきり減っていった。そうすると気が滅入るというものだ。はるかは気分転換がてら、こうして寝転ぶのだった。いつもはそうしてしばらくすると帰路につくのだが、この日ばかりは違った。
「ミャオ」
一匹の黒猫が、はるかの耳元に近寄った。はるかはゆっくりと起き上がり、
「おーどうしたの? ん?」
黒猫の顎を撫でる。ゴロゴロという声を、心地よさげに発する。刹那、その猫は気まぐれに川の方へと駆けていく。
「あ! 危ないよ!?」
それを追いかけるはるか。黒猫を捕まえるが、その拍子に川の中へと落ちる。
「魔法少女になって、世界を救ってほしい」
落ちる水中で不思議な声を聴くはるか。
不思議な声を聴くとともに、さらに不思議な事が起こっている事に気づく。
水の中なのに、息をする事ができるのだ。ボンヤリしていた視界も、ハッキリしていく。
「そのマスクのおかげだよ」
何が起こっているのかわからず、慌てているはるかを安心させるような優しい声が響く。
「そのマスクを付けていれば、君は魚よりも速く泳げる。鳥よりも速く飛ぶ事ができる」
「そして、この僕。猫よりも速く走る事もできるよ」
パクパクと口を動かして話している黒猫の遠く後ろのほうで、何かが動いた。と同時に。
今までに聴いた事がないような、不気味で恐ろしいおたけびがその何かから発せられた。
「さっそく、一番最初の敵がおいでなすったようだね」
黒猫が呪文のような何かを唱えると、綺麗に装飾がほどこされた杖が目の前に現れた。
「さあ、このマジカルなステッキを使うんだ! マジカルアンジュ!」
どう使うの! っていうか、その呼び方は何なの! もう魔法少女になるしかないのか!
敵がもの凄い速さで向かってくる。はるかは、ステッキを強く握りしめた。
――刹那。そのステッキは煌煌と光り出した。人はそれを魔法と言うのだろう。
『さぁ、君の力を見せてみろ!』
発破を掛けるように、脳に直接語りかける謎の黒猫。最初の敵、怪獣マグロスターがその光に飲み込まれる。はるかは状況を飲み込みきれていない。まだ夢でも見ているような、そんな気分だった。そもそも猫が喋るなんて時点で現実的にはありえない。ありえない、としつつもはるかの中で『現実』として受け入れようとしはじめている。不思議な感覚である。
「グゥアア」
ところで魔法とやらは効いているようだ。
「ねぇ、黒猫ちゃん?」
普通なら戸惑う。けれど、何故だろう。この禍々しい雰囲気を纏った怪獣を倒すには、彼に頼らなければならない。はるかはそういう気持ちに駆られた。
『ミッシェル。それが僕の名前さ』
ミッシェルはあくまで笑顔で、紳士的に、優しく語りかける。しかしその目の奥は全く表情を変えておらず、冷たいものだった。まるで眼前の少女を品定めするような、そんな目だった。しかし、はるかはそれに気づかない。
「ミッシェル……これって……トドメ、刺して良いのかな?」
はるかの心には迷いがあった。『必要悪』、しかし彼らも『生きている』わけで。
『トドメなんて。彼らの心を浄化し救済するのさ。マジカル・アンジェの能力で』
「救済……?」
『そうさ。救うんだよ。彼らを! さぁ、「心に浮かんだ呪文」を唱えるんだ! そうすればきっと浄化できる』
しばし目を閉じて思考するはるか。怪獣はうめき声を上げている。心の中に躍動する言葉に耳を傾ける。
「……アンジュ……リングアンジュ……」
心の中の言葉は強くなり、そしてそれが頂点に達した時。
「ヒーリング・アンジュ!」
その言葉を発した時。光は怪獣を完全に覆い、そして怪獣は『成仏』したように見えた。
「…………」
はるかはそれをただ眺めていた。ミッシェルはパチパチと手を叩き。
『お見事! マジカル・アンジュ! 見てよ』
ミッシェルは川のゴミを指差す。
『この怪獣は川のゴミが怨念になったものなんだよ。この川はまだ綺麗な方だけど、塵も積もればなんとやら、だからね。けれど、君のおかげで浄化出来たんだ』
続けざまに語るミッシェル。はるかは呆然としていたが、我に帰ると興奮した様子で。
「わ、私……救ったの?」
『あぁ、そうだとも!』
「……ふふっ。そっか、私が……」
緊張の糸が緩んだはるかは、そこで意識を失った。
目を醒ますと見知らぬ天井が、はるかの目に飛び込む。
「知らない天井だ……」
ベッドから起き上がり、辺りを見回す。
家具が殆どない殺風景な部屋だ。
「私……なんでこんな所に?」
ここがどこなのか調べるために、はるかは部屋のドアを開ける。
するとそこには黒髪の美青年がいた。
美青年の青い瞳がはるかを捉える。
「やぁ、気分はどうだい?」
「えっ、あっ、はいっ! だ、大丈夫ですっ!!」
「そうかい? それにしては顔が赤いようだけど?」
「そそそそそそんなこと無いですっ! そ、それよりあなたは誰なんですかっ!?」
「あぁ、この姿では初めてだったね――僕はミッシェル。改めてよろしく、マジカル・アンジュ」
そう言うとミッシェルは手を差し伸べてきた。
「は、はい」
その手を取り、握手を交わす二人。
「先に言っておくとね、マジカル・アンジュ」
不満そうに眉を顰めるはるか。
「ん? どうしたんだい?」
「あ、あのね? 普段は『はるか』って呼んでほしいの。まだ魔法少女っていう自覚が、あんまりなくてさ」
ミッシェルはしばし逡巡したが。
「……わかった。なら『はるか』。僕が言おうとしたのはまさにそれ。君はこれから魔法少女として活動していくんだ。そしてそのことは決して誰にも知られてはならない」
「誰にも……?」
ミッシェルは釘を差すようにはるかに顔を近づける。とっさにはるかは顔を逸らすが、ミッシェルははるかの両頬に手を添え、正面を向けさせる。
「『誰にも』だ。君の正体が知られると、日本がパニックになる。漫画やアニメの世界における『お約束』だね。ごく一部だけどそういった類の研究をする組織や団体もあるし、そんなのに絡まれたら……」
「わ、わかった。わかったから」
はるかはミッシェルを両手で制してやや後ろに下がる。ミッシェルはニッコリと笑う。しかし目の奥はやはり、笑ってなかった。
「今夜はここに泊まっていくといい」
はるかは少し反応が遅れたが、慌てて。
「え!? いやでも、家に帰らなきゃ……」
ミッシェルは部屋を後にしながら。
「大丈夫。ここでの一日は向こうの一秒にも満たないから」
「一秒にも満たない!?」
「そう。正確には向こうの0.037653秒が、こちらの一日。つまりこちらの27日でようやく向こうで1秒すぎる。だからその点は心配しなくていいよ。それじゃあ」
パタン。扉の閉まる音は、静寂に響いた。
「……」
何から何まで現実離れしている。はるかはしばし呆然としていた。
――とある地下室。培養槽がいくつも存在するおどろおどろしい雰囲気を纏っている。そこに我が物顔で着座する男が一人。
「首尾はどうだ」
ごますりをしながら恭しく着座する男に近寄る下男。
「ええそりゃもう。上々ですとも。最初の実験は成功です。あとはこの『秘薬』を強化すれば……」
「そうか。ならば良い」