忘れたい人と忘れられない人
嫌な思い出というのはなかなか忘れられないもの、だそうだ。なんでも思い出自体が「一連の出来事」に「その時の感情」が結びついたまま記憶されてしまっているためだとか。「感情」に関する記憶は維持する能力との結びつきが強く忘れづらいため、「思い出すたび嫌な気持ちになる」ループに陥ってしまう…と言っていたのは誰だっただろう。
──ああそうだ。これもあの余所者が“てれび”とやらで知ったのだと、声高々に言っていたことだ。またもやショウに関連付く記憶を呼び起こしてしまい、不快感からウォロの眉間に深い皺が刻まれる。
早く記憶から出ていってくれ。願っても、脳裏からその声が、あの笑顔が、消えず頭に残り続ける。
「わ、ショウ。泥だらけじゃないか」
今日の任務を終えてコトブキ村に帰ってきたショウはテルに呼び止められた。
そこまで難しい任務ではなかったが急に雨に振られて汚れてしまったのだと彼女が説明するとテルは渋い顔をして洗い場へ行くように促した。
「隊服…まただめにしちゃった。シマボシさんに怒られるかな?」
「そんなことで怒らないだろ。新しいのオレから頼んでおくから早くあったまってこいよ。風邪でも引かれた方が隊長の機嫌が悪くなるぞ」
「それもそうだね」
2人は小さく笑い合うとそれぞれの目的地へ歩み出した。
テルくんは、優しい。
ちょっとぶっきらぼうだけどいつも見守っていてくれる。
体の泥を落としながらショウは考えを巡らせる。
最近村にできた簡易的な浴場。ポケモンたちのおかげで、そして、彼らと歩み寄ることができるようになった村人たちのおかげで村は少しずつ拡大しつつあった。この浴場もその証の一つだ。
湯で汚れを洗い流すとショウの元の白い素肌が現れる。少し小さな傷はあるがみずみずしい少女の肌。
ショウは体の汚れがなくなったことを確かめて一息ついた。
「ショウ、ちょっと良いか?」
浴場の外の方からテルの声がする。
「隊長から新しい隊服もらったから。ここに置いとくぞ。それじゃあな」
ショウの返事も聞かず、テルが去っていく気配がした。
やっぱりテルくんは優しい。
無遠慮にショウのいる部屋の扉を開けたりはしない。
あの人みたいに。
体の汚れは洗えば消える。傷だって癒える。でも心に残ったしこりは?
考えても答えなど出ないことを知っているのに、頭がぐるぐる考えてしまう。
「ウォロさん──」
呼んだって意味ないのにね。ショウの小さなつぶやきは誰に届くでもなく今日も消えてゆく。
ウォロは道なき道を歩んで行った。記憶の中のショウを抹消するために。てれびだのぽけもんだの、そういった『旧文明』の類には興味がなかったのだ。
しかし、そんな彼の懐には古びた一冊の書物があった。日本という国の文学――太宰治の『人間失格』である。この書物は、どういう訳か、ウォロの手元にあった。そして大庭葉蔵はウォロと重なる部分がいくつかある。
そして、ならばこそショウという少女はヨシ子という女性に似通うのだ。あの本でのヨシ子は……。
ああまただ、と頭を抱えるウォロ。またショウのことを想ってしまう。無機質に生きたいのに。信じても報われぬことはワタクシが一番知っているはずなのに。なぜだか放っておけない。記憶の中から抹消するのではなかったか?
だからこそ、ショウとあって話をするのだ。いつになるかはわからぬが、道なき道を歩み続けた。
早朝、ショウはいつもより早く目を覚ました。
―誰かに呼ばれたような、夢を見ていたのか。
もう一度目を閉じたその時、宿舎の戸を叩く軽い音が耳に飛び込んできた。
「ショウさん」
―ああ、やはり夢だ。知っている。この声を。
窓を通す薄明るい朝の陽ざしに背をむけて、もう一度目を閉じる。
「居ないのか」
ガラ、と戸が開く音がして、今度こそ目を開き、布団から半身を持ち上げた。
「そんな…なんで」
震える唇を動かして、まだ目覚めぬ喉から声を絞りだす。
「ウォロ、さん」
ウォロは罰が悪そうに目線を横に向けると、一歩進み宿舎に入り、後ろ手に戸を閉めた。
「朝早くに、すみません」
顔をあげ目を合わせた瞬間に、今まで抱えていた嫌な感情を押しのけ、別の感情が胸を支配していく
―この少女は、誰だ…。
ジブンを打ち負かした、あの藍の隊服を崩さず身にまとい、射貫くような視線でこちらを見据えたあれを見に来たはずだったのに。
着崩れた淡い色の寝巻がはだけぬようにか、小さな手を胸の前で握り、こちらを見据える目は濡れて光っている。
言いたいことはあったはずなのに、一つも出てこない。ただ目の前の少女から、目を離せず、そこから動けなくなった。
握る手に汗がにじむのを感じる。緊張しているのか、ジブンが?そう思うと、自然と口の端が上がった。
なぜ、ここに来たのだろう。朝早くに訪れた理由を探すが、まだ目覚め切っていない頭に形にならない疑問が次々と湧いては溶けてゆく。ただ、彼の顔から目が離せない。何より――
「会いたかった…!」
零れるように、喉から声が出た。座りなおした布団の上に、水が落ちる。
「あなたの名前を、ずっと呼びたかったんです」
「どうして、いなくなってしまったの」
「どうして、来てくれたんですか」
彼に会ったら、迷惑をかけないように我慢しようと固く閉じていたはずの、誰にも打ち明けなかった感情の蓋が、いとも簡単に開いてしまったように。とめどなく、言葉となってこぼれてしまう。
霧のような思考で、目の前が濡れて見えず、両手で涙をぬぐう。
「会いたかった?名前を、なぜ…」
怒りをぶつけられることは覚悟していた。だから、なぜ目の前の少女が自分にすがるような眼を向けながらとめどなく涙をこぼすのか、考えてもわからない。
「……はぁー」
深いため息が溢れる。こういう時、ワタクシはどうすればよいかが分からない。況してや打倒した人間ともなれば尚更だ。すなわち面倒というものである。
何がおかしくてこのような事態になったのか。そうだそうだ。記憶の抹消だ。本懐を忘れてはいけない。私はこの少女に別れを告げるつもりだった。それなのに。
思えば仮初めの姿を演じるのも、それはそれは苦しかったものだった。そして、かの少女はあどけなく、純粋な言葉を私に刺してくる。
正直、こういう視線が最も苦手だった。
こういう、人の領域に土足で踏み込んでくるような、ふてぶてしさが苦手だった。
「私は今、ここで仲間たちと暮らしてます。ただ、仲間はもう床に就きました」
「ウォロさん。お願いです。ずっととは言いません、せめて一晩だけ。一晩だけここにいてはくれませんか?」
鼓動が脈打った。何故だ。私はこの眼前の少女に『別れ』を告げるはずなのだ。本懐を忘れて何をしてる。私は。
「わかりました」
違う。それはワタクシの本意ではない。違う……。