とにかく僕は、ハエだった。
靴。その日、開け放たれた窓から転がり込んできたのは、履き潰された男の革靴だった。ここは七階。靴は生温かい。湿ったような匂いが鼻をつく。ぼくの足の匂いと同じだ。
ほどなくして通りが少し騒がしくなった。
窓から顔を突き出して下を覗いてみる気にはなれなかった。
ぼくはケータイのメモ欄に書き込む。
" 飛び降りる時、靴は脱いでから "
ハエ、というのは人の名前だった。職の名前ともいうかもしれないが、少し違う。とにかくぼくは、ハエだった。ハエは毎日決まった時間に起き、決まった場所で決まった仕事をこなし、終わった者から決まった場所で寝る。人からなんらかの関心を向けられることはない。ハエは、機械より少し地位が低い道具といったところだ。なおかつ、消耗品だった。動作不良があれば殴っていいし、壊しても責任は問われないし、動かなくなったら交換すればいい。
「……ふ〜…」
バケツいっぱいの洗浄液の海から全ての布巾を出して顔を上げた。九割方綺麗になった狭い部屋の中でワゴンを押し、手すりや鏡、ごちゃごちゃしたスイッチ板、電話の受話器なんかを拭いていく。あとは窓を閉めて、申し訳程度に部屋の消臭スプレーをして…一連の手順をひたすら、部屋の数だけ繰り返す。これがホテル清掃、ハエの仕事だ。
ドアノブを拭いてロックをかけるとワゴンを押していって隣の部屋に向かった。
ドアを開けた瞬間、うんざりするほど覚えのある悪臭が漂ってきた。僕は片足を思いっきりついて鳴らした。足首の関節がバキッと音を立てる。イライラしても顔に出せない時、貧乏ゆすりの代わりにやっていたら癖になった。ワゴンを蹴って部屋の隅に押しやり、専用の黒いゴミ袋を取り出して床に広がる汚物を片付けにかかる。屈み込んでかき集めると臭いでもらいゲロしそうになるから口呼吸だ。片付けたら換気しながら漂白と消毒をし、そのまま漂白剤と消毒液の入ったボトルを抱えて部屋中を見て回った。こういう部屋は、この二つのボトルが必要になる場所が他にも必ずあるものだ。案の定、ソファの肘掛けと枕の裏にもあった。足首を鳴らしながら雑巾で拭き、シーツをバケツに投げ込む。百歩譲ってベッドで吐いたとしてもその上に枕を乗せて出るな。嫌がらせか。
マットレスについたシミをゴシゴシ擦っていて途中で面倒になった。僕は裏表がおなじになっているマットレスをひっくり返して新しいシーツをかけて済ませることにした。どうせ使う方もチンピラや酔っ払いや薬中だ。完璧にするだけ損だ。
この仕事でハエが気にしなくちゃならないことは、リミット、残部屋数、要するにリミット。一にも二にも時間内に全ての清掃を終わらせることだ。