地図にない村
都心から車で約2時間、あるところに村がある。その村は、地図には存在しない村であった。住民にも不審な点はなく、しっかりと存在する村である。その村の不審な点に気づくのは、これからもう少し、後の話である。主人公の勇作は、好奇心旺盛な研究者であった。これは、勇作を取り巻く村の話である。
車を走らせていると図書館が目に止まった。街なかにある公営の立派なものではなく、個人が運営しているような感じのこぢんまりとした図書館だ。
図書館に入ると勇作は受付にいる女性に声を掛けた。どうやらこの女性が館長で一人で運営しているのだ。
勇作は女性館長に「どうしてこの村は地図に載っていないのか?」と質問した。
女性館長は勇作を郷土資料コーナーへ案内し「勇作さん、あとはあなたが心ゆくまで調べて下さい」と言い、受付へ戻った。
郷土資料コーナーとして区分された場所には、小さな展示スペースがあった。村を俯瞰した全体地図や、モニターに映し出された古い映像。それにパンフレットらしきものをファイリングした資料もある。
勇作は腰を落ち着けて全体を把握しようと思い、まずは展示脇にある自販機でコーヒーを買い、喉を潤した。
販売機横のベンチに腰掛けると、どっと疲労感が押し寄せてきた。長時間の車の運転で、知らず知らずのうちに疲れがたまっていたらしい。
この場所へとたどり着けたのは、本当に偶然だった。
車のナビには何も表示されていず、細い脇道へと入っていく子供を見かけて追いかけていなければ、こんな山奥の村になど辿り着きもしなかっただろう。そういった意味ではラッキーだったのかもしれない。と好奇心旺盛な勇作は思った。しかし同時に、何かが引っ掛かる気もした。
コーヒーを飲み干し、空き缶入れへと放り込む。カランと乾いた音がするかと思ったが、奇妙なことに何の音もしなかった。
そこで先ほどの女性館長の言葉が蘇ってきた。
勇作さん、だって? 俺は名乗った覚えが無いのに、彼女はなぜ俺の名前を知っていたんだ? 勇作は不思議に思い受付の方を見た。
勇作が受付に目をやった途端、図書館内に大量の水と土砂がなだれ込んできた。
勇作が知らなかった光景、女性館長が知らなかった光景を「誰か」が映し出したのだ。
誰かわかれば、その村が地図から消えた理由がわかるかもしれない。そして、この2人のつながりも。
一体何だったんだ、今の映像は。勇作は困惑した。視界には確かに大量の水と土砂が流れ込んできた。その証拠に勇作は身を守ろうと頭を抱えてしゃがみこみ、目を固く瞑ったのだ。しかし流れ込んだはずの土砂は体を押し流すこともなく、何のダメージも感じられない。
勇作はゆっくりと目を開けた。そこは元のままの図書館だった。
押し流されるテーブルに砕け散るガラス戸。そんな衝撃的な映像が眼前で展開されたはずなのに、次の瞬間にはきれいさっぱりと消えてしまっていた。
だが一つだけ違っていたのは、受付の女性館長が忽然と姿を消していたことだった。
土砂が流れ込んだとき、確かに彼女は受付に座っていた。一瞬しか見なかったが、それは間違いないと思う。そして大量の土砂と水に飲み込まれたはずだった。
勇作はこの場所にいることが急に恐ろしくなった。もしも先ほどの映像がこれから起こることならば、図書館にいることはこの上なく危険だ。館長の行方は気になったが、身の安全を守ることが最優先だ。
資料コーナーに展示されている街の全体地図と、ファイリングされた資料のめぼしいものをスマートホンで映像に収め、勇作は足早に図書館を出た。
勇作は図書館を出て近くの温泉旅館へ足を運んだ。事前予約をしていなかったが、宿泊者名簿に自身の名前を記入するだけで勇作は宿泊ができた。
この温泉旅館には女将さん一人しかいないようで、名札を見たところ「朝田奈美」と書かれている。
部屋に入ると勇作はこの村のことについて女将さんから知っている限りのことを尋ねたが、女将さんは返答を渋った。次に近所の図書館での出来事を質問したが、これもまた返答を渋ったのだ。
「夕食を作る間温泉に浸かってゆっくりして下さい」と女将さんに言われたので、勇作は女将さんに促されて脱衣所へ向かった。全て脱いで温泉に浸かった。
湯船で勇作は、もう一度、図書館の幻影を思い返した。あの館長はどこへ消えたんだろう。考えを巡らせても、不可解すぎて糸口すら見つからない。
この村で何かが起ころうとしているのか。それとも、すでに起こった事柄なのだろうか。
そこで一つの記憶が蘇ってきた。以前、調査していた古い文献の中に『町が見る夢』という記述があった。それは人間が見る夢と同様に、過去の記憶の断片を繋ぎ合わせたようないびつなもので、時折、町人がその幻覚に惑わされ消息を絶つのだと記されていた。
馬鹿馬鹿しい、と勇作は大きく頭を振った。
考えるのをやめ、湯船でぼんやりと月を見上げる。すると、不意に大きな揺れを感じたような気がした。
湯が荒く波打つ。咄嗟にそばにあった景観石にしがみついた。
長い揺れが収まりかけたと思った次の瞬間、湯船の向こうに広くとられた枯山水の庭園に、おびただしい量の土砂が流れ込んできた。それは濁流のごとく黒松や岩を押し流すと、勇作に向かって突き進んでくる。勇作はなすすべもなく土石流に飲まれた。
気が付くと勇作は、湯船の外で倒れていた。傍らには朝田さんが居て、心配そうな表情で顔を覗き込んでいる。
「ど、土石流は」
「土石流...ですか。倉本勇作さん。あなたもしかして...」
旅館の女将朝田はこのように呟き、勇作が無事であることを確認すると浴室を出て調理室へ戻った。
疑問が拭えないまま勇作は浴室を出て自室へ戻り、料理を堪能した。朝田が下膳に来たタイミングで勇作は質問をした。
すると、朝田は表情を少し固くして「あなたのお祖父様はあの土砂災害当時村長をされてましたね?」と答えた。勇作は「知らないです」と答えると、朝田は「そうですか」と言い食器類を持って部屋を出た。
翌朝、食事を終えた時勇作は朝田からあることを告げられた。お金は良いので気が済むまで旅館に滞在していいとのこと。朝田からの申し出に対し勇作は快諾した。
その後旅館から100mほど離れた所にある神社へ勇作は足を運んだ。
そこはカラス神社。鳥居や本殿は普通の神社と大差ないが、杜にはカラスやトビが棲み着き鳥たちが放つ独特のオーラが神社の荘厳さを醸し出している。
勇作が本殿のお賽銭に五円玉を入れて一礼二拍手を終えた時、本殿から熟年女性が姿を表し勇作を見ると「元村長の倉本真司さん、何の用ですか?」と聞いた。