プライベート 痴話喧嘩

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1人目

「痴話喧嘩」

2人目

「痴話喧嘩」

3人目

降谷は、目の前の光景に青灰色瞳を瞬かせた。驚き、そして次にきた感情は少しの諦めと、それ以上に自身へのふがいなさ。彼女に対しての甘え、色々な感情がまぜこぜになって、うまく落とし込めず。降谷自身でも処理しきれないまま、珍しく感情の赴くまま口を開いた。

「どうして、貴女はそうなんですか」

4人目

 その瞬間、彼女は驚いたように目を見開きくっと唇を噛んだ。形の良い唇がはくはく、と戦慄く様を他人事のように眺めていた。傷つけたのは分かり切っているというのに、ちっぽけなプライドが邪魔をして口を噤んだ。
 どのくらいそうしていただろう。数秒のことかもしれないし、もっと長い時間息苦しい程の沈黙に耐えていたかもしれない。その間も彼女の一挙一動から目を離せない自分に気づき、息を呑んだ瞬間「零君」という彼女の呼びかけが沈黙を破った。
「零君がそうさせるんじゃない」

5人目

静かで、真っ直ぐな声。その眼差しと同じ声に、言葉に。降谷の背筋は反射的にぴっと伸びた。責める、というより、たしなめるといった方がしっくりくるその投げかけ方に、降谷はいつも適わない。素直に彼女の言い分に耳を傾けてしまうのは、もう身体に染みついた癖のようなものだ。
だって、仕方ないじゃないか。いったいどのくらいの時間を、彼女と過ごしてきたと思っているのか。
降谷と彼女の付き合いは長い。出会いは大学生の頃、アルバイト先での本屋で、降谷の指導をしてくれた先輩が彼女だった。初めてのアルバイト、初めての接客業。右も左もわからず、その見た目で変に目立っていた降谷を色眼鏡なく指導してくれた彼女に、降谷はすぐに懐いた。
レジの打ち方、在庫の管理、お客様との接し方…ひとつひとつ丁寧に、けれどけして降谷の見た目で態度を変えることなく教えてくれた彼女の接し方は、降谷にとってとても嬉しくてありがたいものだったので。彼女が教えてくれることは、なぜかすとんと素直に聞くことができた。そうして、降谷が教わったことをきちんとできるようになると。
「すごい、さすが降谷君。飲み込みが早いね」
そう言って、ふわりと笑って褒めてくれるから。いつしか降谷は、その笑顔を見るために懸命にバイトに打ち込むようになった。褒められて嬉しい、が、その笑顔を独り占めしたい、に変わったのはいつだったろう。そう時間はかからなかった気がするが、気付いたら降谷は彼女に恋をしていた。
バイトをやめたら、彼女との接点がなくなる。そんなこと耐えられない、無理だ。そう思った降谷は、健気に仕事を頑張る後輩の立場から脱却すべく彼女にアプローチをしまくった。そうしてようやく言えた好きです、の一言に、はにかみながら嬉しいと頷いてくれた笑顔に心からガッツポーズをとって。降谷は彼女と交際を始められたのである。
それから十年弱、ずいぶんと長い間、降谷の都合にばかり振り回してしまっているけれど。それでも、愛想を尽かさずに降谷の傍にいてくれる彼女の笑顔は、降谷にとってあの頃と変わらず大切なのだ。
積み重ねて来た時間のぶんだけ、変わったこともたくさんあるけれど。もちろん、変わらないことだってある。降谷が彼女を想っている気持ちと同じように。
彼女に名前を呼ばれると、思わず背筋が伸びてしまうのも。あの時のまま、変わらないのだ。

6人目

「ねえ、聞いてるの?」

 彼女の苛立ったような声に降谷ははっと我に返る。気づかない内に思考にのめり込んでいたらしい。普段ならそんなことするはずがないのに、みっともない喧嘩中ということもそうさせる要因なのだろう。全く何をしようが、彼女に振り回されっぱなしだ。

「ああ、聞いてるよ」

 何事もない風を装い、視線を逸らす。気づかぬ間にすっかり夜の帳が降り、空を照らすのは優しい月明り。二人で選んだソファーで、いつものように穏やかな時間を過ごしていたのが遠い過去のようだ。互いの顔を見てくだらないことで笑い、朝が来るのを共に迎える当たり前は"当たり前じゃない"と分かっていたはずなのに。

「いつもそうやって逃げるよね」
「逃げてない」
「意地っ張り」
「どっちが」

 不毛なやり取りを終えようと、彼女に向き直る前にぐんと腕を引かれたたらを踏む。もちろん相手は彼女しかいない訳で。いつもなら後れを取るはずがない相手にこの体たらく。ぎゅうっと力強く握られた指先の温かさに、体勢を立て直すどころか驚きに肩が跳ねた。視界の端に彼女の小さなつむじを捉えた瞬間、心が締め付けられる。何故。降谷は自身に尋ねる。どうして彼女に罪悪感を抱くのか。謝るべきなのはあちらなのに。

「そういうところ、ずっと変わってないよね。分かってる? 零君、ずっと顔に出てるんだよ」
「なっ――!」

 咄嗟に顔を隠したのは言うまでもない。しかし彼女に片手を押さえられたままでは、逃げることもできない。何か言うべきだが、うまく言葉にならず呻き声となって消えていく。

「なんていうか、零君って喧嘩に向いてないんだよ」

 けろっとした顔で毒を吐く人だった。降谷は今更ながら、彼女の強かさに舌を巻く。アルバイトをしていた若い自分は、色んな意味で扱いづらかったろうに涼しい顔でやり切った人なのだ。感情を隠すことには自信があるのに、彼女の前では何も意味を成さない。
 改めて突き付けられた現実に唖然としていれば、ふと彼女が表情を緩める。口角が上がり、瞳はなだらかな弧を描き下がる。ふわり、と笑う彼女はいつも魅力的なのに今日は何故かうすら寒く感じる。

「喧嘩に向き不向きなんてないだろう」
「うーん、無いようなあるような?」
「質問を質問で返さないでくれ」

 呆れて答えれば、彼女がぐるりと視線を巡らせた後頷いた。

「普通喧嘩したら怒るでしょ。零君全然怒ってないし、むしろずっと寂しそうで」
「寂しい? 僕が?」
「うん。子犬がか構ってーって耳をぺちゃん、とするみたいに」

 咄嗟に頭を押さえれば、ふふっと彼女の楽し気な笑い声が耳に届く。

「ね。そういう素直なとこが、向いてない理由」

7人目

…素直、なんて。そんな風に降谷に笑ってくれる人は、もう彼女くらいしかいない。嬉しくて、だけど少しだけ懐かしさと寂しさが込み上げて。降谷は、思わず掴まれたままだった彼女の手をぎゅうと握り返した。
その、褐色の大きな手が込めた口には出せない言葉に気付いた彼女は、一度だけぱちくりと目を瞬かせて、縋ってくるようなその手を見てから。
楽しそうだった笑顔に、ふっと安心させるような柔らかさを追加して。きちんと、正面から向き合った降谷の褐色の手を。今度は二つとも、自身の両手できゅっと包み込んでから。
真っ直ぐに、降谷を見上げて。笑ったまま、口を開いた。

「ね、だから。きちんと言って?」
「…な、にを」
「零君が、何に拗ねてるのか」
「拗ねて、」
「ます。怒ってるんじゃなくて、拗ねてますね、その顔は」

何年、その顔見てきたと思ってるの?
ふふん、と胸を張ってそう言われては、もう降谷には反論する言葉がない。拗ねてないと、重ねて言っても、より駄々をこねているようにしか見えない。子供か。いや、子供…では、ないはずだ。多分。きっと。ちょっと自信がなくなって、彼女の顔を真っ直ぐ見れなくなった降谷にも容赦なく。どんどん俯いていく視線を許さず、彼女はきっぱりともう一度言った。

「私もさ、言われないとわからない性格だから。何か、零君が嫌なことをしてしまったときにはきちんと言ってほしい。そんな寂しそうな、拗ねた顔をさせたくない。ほうれんそうはきちんとして、って、いつも言ってたでしょ?」

だから、ちゃんと教えて。
優しく、でも逃げられないほどきっぱりと。言われたその言葉に、降谷はぐぅと呻いて心で白旗をあげた。ああもう、降参。降参だ。もとより彼女に適うなんて思ってなかったけど、こんなに嬉しくて気恥ずかしい白旗があるものか。
聞いてくれて、受け止めてくれて、嬉しい。だなんて。

8人目

「悪かった」

 素直になるまでもなく、自然と謝罪が口をつく。

「私もごめんね」

 緩やかに首を振った彼女が、苦い笑みを浮かべる。

「ちょっと大人げなかったなあ、って」
「僕の方こそ」

 二人して顔を見合わせ、耐え切れずに噴き出す。計ったようなタイミングに笑いが止まらず、降谷がソファーになだれ込めば、手を繋いだままの彼女が折り重なるように胸の中に飛び込む。わっ、と慌てたような小さな声を漏らす彼女を危なげなく抱き留め、思う。この僕が彼女を受け止められないはずがないじゃないか、と。
 
「気づいてる? ちょっとニヤけてますよ」
「貴方も」

 そうしてまた顔を見合わせ笑い合う。幸せな笑い声は絶えることなく、夜は更けていった。

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