闇の森
ここは古から伝わりし、呪いの森。
人はおろか、獣さえ寄り付かない、闇深き森。
何がいるか分からない。
魔物か。魔女か。それとも、悪魔か。
そんな森の中から、近頃、奇妙な音がするらしい。
ピロロロロ。ピロロロロ。
人は言う。悪魔が地獄へ誘き寄せる笛の音だと。
また、人は言う。闇の森を統べる竜のいびきだと。
果たして、何が正解か。
疑問を浮かべる者はごまんといたが、それを確かめようとする者は、一人もいなかった。
彼をのぞいては。
彼は怒っていた。
引きこもりを続けていた彼は、家族から呆れられ無視され、ついには寝ている間に闇の森の近くの小屋へと運ばれ、家を追い出されたのである。
その小屋は昔、森で修行をする者が使用していたそうだ。
誰にも邪魔されずに寝られることに気づいた彼は、思う存分小屋で寝ることにした。
しかし、
ピロロロロ。ピロロロロ。
静かなところで寝たい彼にとって、音がうるさくてたまらなかった。
「止めてやるぜ、このアラーム...」
そう怒りながら呟き、彼は森の中へ入った。
森の中は噂通り獣一匹いない不気味な道が奥へと続いていた。
そしてあの音が聞こえてくる。
ピロロロロ。ピロロロロ。
「あぁ、うざってぇ! 今すぐ止めてやるから首洗って待ってやがれ!」
それから、数時間彼は霧がかかった森を行く。
進んで行く度に景色は変わる。
辺りには菌類が多くみられ、彼が進んできた道も草木によって阻まれていた。
「ここまで来て引き返せるかよ!」
ここで彼は小屋から持ってきた小さな斧に手を掛け、行手を阻む草を刈り、細木を薙ぎ倒し、先へを突き進んだ。
そしてその先に彼が見た物は
公衆電話ボックスだった。
開けた森の中で、誰かが受話器を受け取ってくれるのを待っている。
いつからこんなところにあったのか、誰が何のために…。
彼は吸い込まれるように、電話ボックスの中に入った。
ピロロロロ。ピロロロロ。
「くっそ、なんなんだよこれ」
彼は、意を決して受話器を取ろうとしたが、手が震えて取れなかった。
「あら、えらく慌てた様子ですね」
背筋が凍った。こんな時間にこんな場所で人が歩いているなんてことはありえない。
不気味な鼓動を繰り返す心臓を抑えながら振り返ると、そこには白装束の少女が立っていた。顔立ちは整っているが顔は青白く、隈の堀も深かった。
「今度は怯えた様子……かしら? やっぱり人間はコロコロ表情を変えるから面白いわね」
こちらに近寄る少女に腰を抜かし、ボックス内で崩れ落ちた。
彼女はそれを見て、ニコリと不気味な笑みを浮かべ、震える俺の顎あたりに指を触れた。
冷たかった。
身の危険を感じた俺は即座に少女の頭を食って殺した。
それからライターを持っていることに気づき、森をに放火して焼き払った。
森はなくなり、笛を吹いてたやつも焼け死んだ。
森中の化け物が焼け死んだ。
それから俺は家に帰ると、家族を皆殺しにした。
通報されたが、警察も皆殺しにしたので大丈夫だった。
ついでに銀行に行って銀行の奴らを皆殺しにして金を奪った。そして豪華な暮らしを送った。
夢じゃないかと思ったが夢じゃなかった。幻覚でもない。紛れもなく現実だった。
それから核ミサイルを買って日本に撃ち込んだ。
核は日本列島を破壊し、世界地図を書き変えるほどの甚大な被害をもたらした。
国際社会はこの壮大な無理心中に慄き、憤ったが、これはまだ序章に過ぎなかった。
発生した煤煙が上空に留まり、日光を遮ったのだ。当然気温は低下し、海水の蒸発が減少する。
すると雨が滅多に降らなくなり、作物に影響が出る。
人々は食事のほとんどを食肉や乳製品に頼った。小麦、米、野菜、果物などは贅沢品となり、ごく一部の富裕層の食卓を彩るのみになった。
家畜の数も減り始めた。餌となる牧草がうまく育たず、多くの家畜が餓死した。
「ハハハッ」
少女は笑う。
世界が狂っても、その森はそのままだった。
ピロロロロ。ピロロロロ。
相変わらず公衆電話は鳴り続ける。
周りにはあまりにも不似合いな、苔1つついていない、新品のような公衆電話──。
「面白い……あの人間、私の頭を喰ったわ。」
息遣いを荒くして、うっとりとした目で少女は公衆電話をなでる。
その部分だけグニャリと形が変化し、やがて腐り落ちた。
少女は小さく悲鳴を上げ、「ごめんね、ごめんね」と言いながらその部分を、魔法と呼ばれる神秘的な、そして悪魔的なその力で直した。
ザクザクザク。
公衆電話と少女だけの森に足音が鳴り響いた。
「珍しいね、お客さんとは」少女は声のする方を振り向く。
「今の力見たよ……」そう力弱く話す青年は痩せ細り今にも倒れそうだった。
「この国は滅んだはずなのに? どうしてここにいるの」少女の疑問に青年は答える。
「僕に帰る場所はないんだ、大切な人も」そう零す青年に少女は笑う。
「もしかして、この森に食べ物があるとでも思ったの?」少女は青年をからかう。
「違うよ。この森なら僕の最後の話し相手になる人がいるんじゃないかと思って」
腐敗と治癒の力を持つ、忌み嫌われた自分を。
この青年は、すがるような目で、ただ見つめている。
本当に、話し相手が欲しいだけなのだ。
面白い。なってやろう。その、最後の話し相手とやらに。
少女は、静かに青年の話を聞き続けた。どれほどの時間が経っただろう。
やがて青年は動かなくなった。命の火が燃え尽きようとしていた。
「ありがとう」
長い時間をかけて、それだけ言うと、青年は静かに目を閉じた。
少女の膝の上で、青年は腐敗し、消えてなくなった。
おやすみ。少女の小さな声は、森の闇へと溶けていった。