クリームソーダを求めて
男は引きこもりだった。
会社を辞め、田舎の実家に帰り、はや三か月。
ある日の夕方、男は腹が減っていた。
何か食いものはないかと部屋から出て、一階へ降りた。そのとき、テレビの画面が目に入る。
『ファミレス人気メニューランキング』
画面に映るのは、緑色の液体に乗せられたアイスクリームをスプーンですくって食べているイケメンアイドル。
男は思い出した、幼少期のクリームソーダの記憶を。あの味が大好きだった。だが、大人になってからあの味を口にすることは無かった。
「クリーム...ソーダ...だと...?」
男はそう呟き、ドタドタと階段を上がり部屋へ戻る。財布を掴み取り、玄関から外に飛び出た。久しぶりの外であった。
クリームソーダが飲みたい。ただそれだけだが、全身から力が湧き出した男は、隣町にあるファミレスへと走るのである。
しかし、このとき男は、これから待ち受ける試練など知る由もなかった。
道中見慣れた男がトラックの脇で作業しているのが目に入る。
男は走る彼に気づくをすぐに声を掛ける。
「おい! タダ飯食い! 丁度いい所に来た。明日の現場で使う資材が多くてな。ちょっくら手伝ってくれや」
その男は建築業を営む彼の父親で、どうやら明日の仕事の準備中らしい。
「その言い方なんとかしてくれよ。事実なんだけども」
無論、彼の立場では断る事など出来るわけがなく、資材を担ぎ上げる。
「悪いなぁ、付き合わせちまって」
彼は嫌々ながら黙って手を動かした。
「親父、こいつで最後だ」
「ありがとよ! 助かったぜ。俺もなんせ歳だからよ。昔みてぇにはいかねぇもんだ」
全ての資材を積み終えたところで二人は地面に座り一息入れる。
「あんまり無理すんなよ、親父」
「まだまだお前に心配される程じゃねぇよ。まぁお前が家業を継いでくれるってなら話は早いんだがな」
父親の言葉に彼は黙り込んでしまう。
「冗談だ。間に受けるな。」
それ聞いてホッとしたのか彼のは立ち上がりその場から去る。
そんな彼を父親は笑顔で見送った。
男は走る。体感速度は日の沈む十倍より多分早い。
父の手伝いの最中もずっとクリームソーダのことしか頭になかった。
クリームソーダ。クリームソーダ。
あの、しゅわりと弾ける緑色の甘水。濃厚なバニラの香りがするアイスクリーム。
ちょこんと添えられたチェリーは、可愛らしくもどこか洒落た雰囲気に一役買っている。
クリームソーダが飲みたい。公共交通機関とか自家用車とかを使うよりも、クリームソーダに向かって走っている感覚が欲しかった。あと普通にバス停まで歩いて三十分、バスは一日三本しか来ないという理由もあった。なので走っている。
口の中に溜まった唾液を飲み干して、まだ走る。ぜぇぜぇと荒い息が漏れた。
だが男の目は爛々と何かを見据えている。勿論それはクリームソーダという概念である。
隣町にはまだつかない。長い道路を道のりに走ったが、男の家はドのつく田舎にあった。
クリームソーダという、なんとも気品がありながら親しみやすい飲み物をお出しできる店は、男の住んでいる町になかった。
足が痛い、だが走らねば。セリヌンティウスは居ないがその先にはクリームソーダが待っている。
暗闇の先にファミレスの明るい光が見えたのは、家を飛び出してから二時間ほど経った頃だった。
「ふぁ、ファミレス。ついに、ついに俺は辿り着いた」
男が重い足を引きずりながら店の前まで来た時、
「ありがとうございました」
聞き覚えのある声がした。
まさか、と思い男は植え込みに身を隠した。
窓の方へ回り込み、そっと店の中を覗いてみる。丁度セミロングで黒髪のウェートレスが、こちらに振り返るところだった。
「ふえっ」
顔を見た瞬間、思考が停止した。そこに居たのは、学生時代に同じ部活になってからずっと好きで、卒業式の日に玉砕覚悟で告白した憧れの女子、優美ちゃんその人だった。
「なんで彼女がここに!?」
彼女は確か、都会に就職すると街を出て行ったはずだ。自分も田舎を出るから、とダメ元で告白したのだが、しどろもどろになってまともに告白出来なかったという黒歴史状態で、二度と彼女の顔など見れないと思っていた。それがよりによって、こんな時にこんな場所で。
「ぐああ、せっかくここまで来たのに……」
クリームソーダは食べたいが、優美ちゃんに合わせる顔はない。
心底疲れ果てた男は、肩を落として窓辺に項垂れた。
「目呂洲君、起きて」
半ば気を失う様に眠っていた男の耳に声が聞こえた。懐かしく優しい声だった。
瞼を開けると、顔を覗き込んでいる優美と目が合った。しかもファミレスの事務所に寝かされていたらしい。
慌てて後ずさり、掛かっていた毛布で顔を隠した。けれど心臓のバクバクは収まらない。
なにせ合わせる顔がないと途方に暮れていた相手が、もう目の前に居たのだ。
「久しぶりだね。でもびっくりしたよ、あんなところに倒れてたから。っていうか何してたの」
優美は平然とした顔をしている。挙動不審になりながらも、男は仕方なくクリームソーダの話をした。
なら入って来ればよかったのに、と優美は笑った。
なははは、と黒歴史の事など言える筈もない男も、笑うしかなかった。
だが話していくと、優美は告白の事などすっかり忘れていた。それもそうだ、男がしどろもどろで勝手に逃げだしたので、告白とすら思われていなかったのだから。しかしそれを知るのはもう少し後の事。
ソーダが飲めた上に優美とも話せた男は、上機嫌で家へと帰って行った。
ちなみに、ニートを隠し家業を継いだと嘘をついてしまった男は、その後本当に跡を継いだのだった。