恋する悪魔
あなたの隣にいると心が暖かくなる。
あなたの隣にいるとつい笑顔になる。
あなたの隣にいるとドキドキしてしまう。この気持ちが何か気づいた時には、私はもう手遅れだった。
だって……だって、あなたが突然行方不明になっちゃったんだもん! 私のせいで!私がちゃんとしてれば! ごめんなさい、ごめんなさい! こんな私を許してください……
近代的な書店の中で、叫び声のような独り言が響く。
「あのー、他のお客様の迷惑になるんで、ひとり言やめてもらえませんか?」
若い金髪の店員は、なるべく刺激しないようにやわらかく注意した。
声の主は、一冊の本を片手に、チラッと顔だけを店員に向けた。
女は手に持っていた本を棚に戻して、コツコツとハイヒールの音を床に刻みながら、店員の前に立った。
背丈は190センチ位だろうか、店員は見上げるようにしている。
「ご協力、感謝します」
頭を下げて、立ち去ろうとした店員の肩を、
掴んだ。
「あっ、あの、あの時私はどうすれば良かったのでしょうか?」
女の問いかけに店員は、表情一つ変えずに女に振り返る。
「それ、聞く相手間違ってませんか?」
それだけ答えると彼は女の手を優しくどかし、店の奥へと消えて行った。
「私、いつまでこんな事してるんだろ、早く・・・帰ってきてよ・・・」
涙を拭い店から出ると雨が降りしきる中、傘もささず、ふらふらと自然と足が向くままある場所へと向かっていた。
一時間後、女の姿は白い砂浜の続く海岸沿いにあった。
女は赤いヒールを土手に脱ぎ捨て、頬を打つ雨を気にもかけず、砂浜を波打ち際へと向かい歩いていく。
点々と砂浜に刻まれていく足跡は、いつしか大きな獣のものに変わり、女が波打ち際に辿り着いた時には、その姿も巨大なウミガメに変わっていた。
「ああ、せっかくばあさまにかけて頂いた魔法が、海沿いだと効果がなくなるのね」
ほっそりとした腕だったものは、ごつごつとした亀の前足に醜く変わり果てていた。それを見つめ、悲しげな表情を浮かべる。
そう、背丈が190センチある大女の正体は、実はウミガメが人間に擬態した姿だったのだ。
「ああ太郎、あなたはどこへいったの……。書店へ行けば、何かが分かるってばあさまは言ってたのに……。イソップ物語にもガリバー旅行記にも、太郎の事は書いてなかった……」
遠くにかすむ島影を見つめながら、ウミガメに戻った女がつぶやく。そして100年以上昔、男とここで初めて出会った時のことを思い返した。
「太郎……あの時あなたは、私がここで子供たちにいじめられているのを見て飛んできてくれたね。泥だらけの甲羅を、着ていた上着で丁寧に磨いてくれて、大丈夫かいって声をかけてくれた。あの時の暖かな笑顔、今も記憶に焼き付いてるよ」
太郎の事を思い出すだけで、ウミガメの心は少し暖かくなった。そしてまた涙があふれ出した。
「太郎、会いたいよ……」
呟いた言葉は、突風にかき消された。雨脚はさらに強くなっているようだった。
「えっ」
不意に何かが見えた気がして、ウミガメは遠くに向けていた視線を海岸へと戻す。
確かに今、人影のようなものが視線の端、波打ち際ところに見えたはずだ。
「太郎! 太郎なの?」
打ち付ける雨の中、必死に目を見開き視線を巡らせてみる。だが気のせいだったのか、何も見つけることはできなかった。
恐らくこの風景がいけないのだ、とウミガメは思った。
漁村の家並みは変わったけれど、砂浜の風景はあの頃のままだ。この海岸に居ると、今にも太郎が駆けてきそうな気がした。
けれど太郎は、もうここには居ない。竜宮城から戻ったあの日、居なくなったのだ。
「なんであの時、竜宮城になんて連れて行っちゃったんだろう……」
そもそも自分が恩返しなんて考えたのがいけなかったんだ、とウミガメはあの日からずっと考えていた。そして今も頭の中をぐるぐるとその考えは回っている。
「わたしが、わたしがもしあの時……」
ギュッと目をつぶると、ウミガメに戻った女はゆっくりと首を振った。
「こんな弱音、吐いてちゃだめだよね。もうあきらめないって決めたんだから」
胸に問いかけるようにつぶやく。そして一つうなづくと、
「太郎、絶対あなたを探し出して見せるから。たとえこの身が化け物や悪魔に変わり果てても」
きびすを返し、土手のヒールを拾い上げる。そのころにはまた、ウミガメの姿は元の大女に戻っていた。