先天性失恋症

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1人目

 今日というのは鏡だ。過去を写し、未来を映そうとする。
 美術館。大量の意味不明で(少なくとも僕にとっては)無意味な抽象画が、なんだか意味ありげに、きれいに規則正しく飾られているその空間は、ひどく吐き気をもよおす場所だった。それでも、吐くことはできない。美術品のない美術館の存在が許されないように、彼の中身を吐き出してしまう勇気が、彼には無かった。
 美術品が盗まれるように、誰かに殺されたい。それなら許されるはずだ、と、何度も場面を想像するけれど。

 彼には今日が欠落していた。論理的だが、文脈に貧しい毎日を、彼はただただだらだらと過ごしていた。たまにこうして美術館に来て、吐き気を確かめるくらいの文脈上に生きていた。そんな日々がしばらく続いた。やがて文脈はページをまたぎ、

2人目

彼は15年前、美術部で油絵を描いていたときのことを思い出す。高校時代、彼は理系に進み勉強にいそしむ傍ら絵を描いて心を落ち着けていた。部室の片隅、西日が差す窓辺で、画材と木材の香りに包まれながら黙々と、周りの部員の談笑に耳を澄ませながら。その頃の記憶が、彼の足を美術館へと向かわせるのだろう。そして大量の絵画に詰まった誰かの濃密な時間を確認させられ、未来を生きる理由を宣告される。
 しかし今の彼には、何も、無い。他人から賞賛されるような持ち味も、積み上げてきた労力の結集も、環境から独立した世界観も、自分自身で否定してしまったから。そして15年前からずっと想い続けている人がいる。もうとっくに社会に出て、慌ただしく頭を下げて、挨拶を喉から絞り出す、あの人らしい人生をおくっているだろう。彼とのつまらない社交辞令のことなんか最初から頭になくて、自分の芸術を通じて他人と通じ合うことができているだろう。もしかしたらあの人の魅力が他の誰かに気づかれて、幸せな家庭を築き始めているかもしれない。
 もしもあの日盗まれた絵画が、誰かの記憶に刻まれているとしたらと考えることが、彼にとって唯一の救いであった。