プライベート 泣かぬ君にキスシーンを。
にんぎょう-びょう【人形病】
脳が突然眠ってしまい自分の意思では起きることができず、筋肉が硬直してしまう病気。名称の由来は、目を開いたままその場で動かなくなってしまう様が人形に似ていることから。発症例が世界的に少なく、治療法はまだ見つかっていない。しかし、恋人や家族からキスをされると一定時間だけ発症者が動き出すと報告が上がっている。
朝日が射し込むキッチンで、インスタントコーヒーを淹れるのが俺の日課だ。瓶から豆をティースプーン二杯分掬いとって、マグカップの中へ。ポットから白い蒸気を吹き出したところで火を止め、沸けたお湯を注ぐ。砂糖は一杯。ミルクはいっぱい。甘ったるいコーヒーの醍醐味を消し去った飲み物ができる。
「ほら、沢北。いつものできたぴょん」
ダイニングテーブルに腰かけたまま動かなくなった恋人にコーヒーを差し出す。猫舌の彼から熱くて飲めないと言う駄々は、もうしばらくの間聞いていない。
彼が人形病と診断されたのは、三年も前のことになる。桃や栗の木ができる年月が経ってしまったのかと思うと、もう春だと言うのに背筋が凍るような思いだ。
診断した医者は、治療法のない病気にかかった恋人を救うために研究をさせてくれと願い出た。俺は頭を下げて頼み込んだ。しかし本心は、解決策のないこの症状に解答をいち早く出せばきっと自分の株があがるという目論みがあるだけで、ちっとも寄り添ってくれていなかった。
それでも良かった。この奇病が治るならと、大好きだったバスケも辞めた。家できる仕事を探して、家も一緒に住める所へ引っ越した。ただ彼のそばにいる時間を増やしたかった。最初は、沢北も喜んでくれた。けれど、徐々に短くなっていく意識のある時間と筋肉を使えず固まって動かなくなっていく体に意気消沈としてしまい、最近は目覚めても虚ろな目をして力なく笑うことが増えてしまった。
「飲まないなら飲むぴょん」
冷めきったコーヒーを一気に飲み込む。とても飲めたもんじゃない甘ったるさが喉を伝って、拒絶反応で戻ってこようとする。それを無理やり胃に流し込んで、コップを叩きつけるような勢いで机に置いた。お揃いで買ったコップは、最後に使った日が思い出せないほど棚の奥へと押しやられてしまっている。陽の光だけでは部屋が温まることがなく、ため息をつきながらエアコンのスイッチを入れるのだった。
ようやく温まった部屋で、沢北の頬を撫でる。こうして見ると、彼の顔の白さと端麗さが相まって本当に人形のようだ。そのまま手を滑らせ唇に触れる。何日も水分を含んでいない唇は少しカサついていて、時間の経過を物語っていた。
キスは一日に一回。医者が言うには、発症した者と親しい間柄である者が口付けると目覚める事があるらしい。眠り姫のようだと言えば聞こえはいいが、実際はそんな美しく儚いものではない。どちらかといえば浦島太郎のような残酷さの方が強いだろう。ただ毎回それで目覚めるという訳でもなく、調子が良ければそのまま目覚めるし、悪いとこうして一週間以上目覚めない時もある。あの出世目当ての医者が決めた回数などあてになるかも分からないが、その回数を破り二度と目覚めないなんて事があっては困るので従っていた。
今朝も一度だけ優しく触れる程度のキスをしたが、結局夜になっても沢北の意識が戻る事はなかった。テレビ横の引き出しから目薬を取り、沢北の元へと戻る。かかった当初はもちろん目を閉じさせようと試みたが、瞼の筋肉が硬直しているせいか満足に目を閉じられず、結局断念して毎日目薬をさすようになった。未だ虚ろなその瞳をそっと上に向かせる。そして目薬をさすと、目に留まりきれなかったものがまるで涙のように沢北の頬を伝った。
学生時代のアメリカ遠征で眩しいほどに目を輝かせバスケをしていた沢北を思い出し、己の顔が一瞬曇る。この病にかかってからは活動時間が数時間程度のため、試合中に発症してしまう恐れが十分にあった。ドクターストップがかかった訳では無いが、こんな状態では満足にバスケなど出来るはずもない。チームメイトにも迷惑がかかるからと言ってプロ選手を一旦降り、現在は休養に専念している。
ハイライトの無い瞳が俺を見つめるが、その目には何も映し出されない。顔から手を離して目薬をしまい、代わりに寝室から掛け布団を持ってくる。明日はくだんの医者が定期検診で訪問してくる日なので、それに備えて早めに寝ておこうと隣のイスに腰を下ろす。
沢北が寝室以外で発症した時は俺も寝室では眠らない。この恋人の目が覚めた時に一人で不安にならないよう隣で眠るのだ。
「……おやすみ、沢北」
目を閉じれないままの恋人に声をかけ、瞼を閉じた。
椅子に座ったまま朝を迎えると、血の巡りが悪くなり腕の感覚がなくなる。続けることで体に負傷が出ることも理解っているが、隣で眠る恋人はもう負傷なんてレベルじゃないはずだ。それに比べたら俺の体の痺れなんて大したものじゃないと思えてしまうから恐ろしい。沢北に伝えたら体を大事にしてくださいなんて泣きながら怒られてしまうだろう。
今日も例に漏れず甘ったるいコーヒーを淹れ、洗濯等の家事を済ますとあっという間に十時を過ぎた。唇に軽いキスを落とすが何も変わらない。落胆の溜息と共に来客を知らせるチャイムが鳴った。
来訪者は予定の時間を五分ほど遅れてやってきたかかりつけ医だった。道が混んでましてなんて乾いた笑いを浮かべる医者をそうですかなんて言いながらリビングに通す。この医者も沢北の面倒を見てからずっと来てくれているのだから付き合いも三年になる。自分の成果のためとはいえ、病院を抜け出してここまで来るには多少時間がかかる。沢北を自分の名誉のために使うのは好ましくないが、その結果沢北が治るのだとしたら頭が上がらなかった。
「では、いつもの検診と問診を始めますね」
医者は聴診器を取りだし、見れる範囲で沢北の体に異変がないかを診てくれた。今回もなにもなかったらしいとのことで胸を撫で下ろす。
「どのくらい目覚めてないですか」
「一週間程度ですね」
語尾をつけ忘れるほど、この医者を前にするとかしこまってしまう。この人の一言一句が沢北の体調に直結するからだ。
「……これが解決に繋がるか分かりませんが、お話してもいいですか?」
医者は言うか迷っているようで、口を重々しく開いた。改善策があるならなんでも試したい。俺は話に食いついた。
「ストレスの話ですが、ストレスがたまると脳疲労が溜まります。すると、脳は休息を促すため眠気が出ることがあります。沢北さんはもしかすると、なにか強いストレスを受けてたのではないか……と」
唖然とした。沢北がストレスを抱えていたようには見えなかった。こんなに近くにいて俺が気付けなかったというのか。
試しになにか不安やストレスを取り除いてあげるようにするといいかもしれませんね。という医者の診断で今日の訪問は終わった。その日の夜は解決策が見つかったというのに、上手く喜べずに眠りについた。
翌朝。いつものルーティンをこなした後、またいつものように口付け……はしなかった。昨日の医者の言葉が頭をよぎる。あの医者は、ストレスが原因かもしれないと言った。何がきっかけでこんな奇病にかかったのかは分からない。本人が目覚めたら心当たりが無いか聞いてみるしかないだろう。代わりにここ最近目覚めない時間が長くなった理由を考える。外に出ていない沢北が外部からの何かによりストレスを溜めるという事はきっと無い。ならばもっと根本的な部分、この病自体から来るストレスである可能性が高いとふんだ。
明確な治療法のない病気になっただけでも不安なはず。だが今思えば沢北は、この病にかかってからツラいやしんどいなどという弱音を吐いた事は殆どなかった。折角目覚めても数時間後には意識が途絶え、起きた時には一週間も経過している、なんて生活が続くのはもはや想像を絶するツラさだ。それでもあんなに泣き虫な沢北が何も言わなかったのは俺に心配をかけさせたくなかったからかもしれない。大丈夫、平気です、と笑う顔が鮮明に思い起こされる。
どうすれば彼のストレスを取り除いてあげられるだろう。どうすれば、この衰弱した恋人にちゃんと弱音を吐かせてやれるだろうか。少し考えたのち、彼に近づき声をかけた。
「沢北、いつまで寝てるピョン? ほら、そろそろ起きるピョン」
大きくて少し冷たい体をめいいっぱい抱きしめる。自分の体温を分け与えるように。そしてそのままゆりかごのようにゆっくりと揺らす。同時に頭を優しく撫でると、今までまるで動かなかった沢北の手がピクリと反応した。
「……! 起きたか……?」
「…………」
意識が戻ったかと一瞬期待したが、問いかけに反応はない。それでも構わずに語りかける。ここで諦めたら、もう沢北が目覚めないような気がしたから。
「ふ、とんだ寝坊助ピョン。今日は布団で寝ようか」
一週間以上もこの椅子に座っているのだから確実に体に負担はかかる。横になった方がきっと多少の疲れは和らげることが出来るはずだ。ただでさえ精神に負荷がかかるのだから、せめて体への負荷を僅かでも減らしてあげたい。まだ昼間ではあったが、何日か前に取り替えてからまだ誰も寝ていない綺麗なままの布団に沢北を運ぶ。どこにも力が入っていない体はとても重く、寝室に運ぶだけでも重労働だ。当時から足腰を鍛えていて心底良かったと思った。
仕事を一ヶ月休む事にした。ストレスの原因が分からないし、沢北が起きれる時間も限られているのにリモートで仕事をしていたら構ってやれないと踏んだからだ。
「寝坊、起きろピョン」
眉間にデコピンをし、そのまま唇にキスを落とす。どうせ起きない。そう思っていた時だった。
「……痛いっすよ、深津さん」
眉間を抑えた沢北が起き上がった。実に一週間以上ぶりの目覚めだった。重い瞼を擦り、大きな欠伸をする。そんな日常の一コマのような沢北に、呆れも怒りも忘れ抱きついた。
「ど、どうしたんすか」
「どうしたもこうしたもないピョン! お前は……」
「……はは、可愛い深津さん。オレ起きてますよ」
ありったけの罵声が頭に浮かんでは消えていく。今はただ、目を覚ましたことだけが嬉しくて、もう離さないと力強く抱擁する。沢北は甘えたようなそれでいて甘やかしてくれるような優しい声で俺の背を撫でた。久しぶりの人の心を宿した沢北に胸が張り裂けそうなほどの愛情を注いでやろうと、沢北がまた眠りにつくまで抱きしめていた。
昼過ぎになって、沢北は静かに眠りについた。深津さんに迷惑かけれないからと、ベッドの上から動かず、大好きなバスケットボールにすら触れなかった。次いつ起きるのか分からない。もう二度と目覚めないかもしれない。そう考えると不安でたまらなかった。しかし、留まっていても何も解決しない。俺は通帳を引っ張り出し、自分の残高を確認した。沢北を外に連れ出そうと思ったのだ。車椅子を借りて、俺が押せばいい。次起きた時にはどこに行きたいか聞こう。国内、そうだ。沖縄とかはどうだろう。アメリカの街並みがある場所やバスケットコートも沢山ある。インターネットを使って、沖縄旅行について検索する。スキューバダイビングやサイクリング、水牛に乗っての散歩。前者は沢北の調子が良かったらやらせてもいいかもしれない。無理なら沖縄の街並みを車椅子を押して進もう。
「沢北、お前はどう思うピョン?」
眠りについたままの沢北は答えてはくれない。けれど、二人で出掛けるという出来事に心が弾み、日が変わるのも気にせずに旅行の計画作りに没頭して、いつの間にか朝焼けの時間まで過ごしてしまった。