夏に欠かせないナ二か
僕はコンビニの裏で同級生と飲むジュースはいつにも増して美味いと思う。ストローを口でがじがじと噛みながらリンは「まじでくそ暑いわ。いやほんとに」とボタンを外しながら言った。最高だ。制服ボタンを外したリンの胸からはくっきりとした谷間ができていた。「谷間めっちゃいいね。しかも太陽が汗に反射して余計にいいわ。」
「は? 意味わからんし」
言いながらリンは、僕のエロい視線などお構い無しに、シャツの合わせ目の部分を掴んでバタバタと胸元に風を送る。そのたびに谷間が波打って、僕の視線をくぎ付けにした。
あー、本当にもったいない。こんなにいい女だってのに。
というのも、リンは女として見られない事が本当に多いのだ。浅黒い日焼けに男言葉で、下ネタにも動じない。普段着はほぼジャージかジーパン。スカート姿なんて見たことがない。おまけにショートカットで襟足を刈上げているものだから、ぱっと見は本当に男子。しかも美形だし。
それにため口ですぐに手を出す乱暴ぶりから、同じ部の連中でさえもリンの事を女と意識している奴はいない。そして下級生女子から憧れの先輩として見られ、手紙をもらっている姿を何度も目にしたことからして、女子ですら男属性で見ていることは間違いない。
けれど付き合いの長い僕は知っている、リンの隠しきれない女の子の部分を。
だからわざと言ってやるんだ、さっきみたいなセリフを。リンが女の子だってことを忘れないように。
「ほう、これが谷間補正ってやつか……」
今度はわざと胸元を覗き込んでみる。キッと睨んでくるリンの視線を受け流し、
「やっぱお前、すっげーいい女だぞ、リン」
僕はそう言って、残りの缶ジュースを飲み干した。見上げた青い空に、ジージーと鳴くセミの声が遠くこだましていく。空はどこまでも高く澄んでいて、青くかすんだ山の向こうに入道雲が沸き立っていた。
ああ、こんな時間がずっと続けばいいのに。ふとそんな思いが浮かんだ。
リンとのここでの時間は、僕にとって宝物だ。でもリンは僕を、どう思ってるんだろう。異性として意識されてないと思うことは多々ある。いや、ほとんどか。
でもかまわない。リンがそばに居てくれるなら――
* * *
しかし、部活のお盆休みまであと五日というところで、とある事件が起こった。
それはリンが僕に独り言のように放った一言から始まった。
「なぁ、海とか見に行かね?」
いつもの部活帰りのコンビニ裏の階段で、リンは空を見上げながらそう言った。
強い日差しに射られた横顔のシルエット。流れるような鼻筋や顎のラインのシャープさとは裏腹に、口元は気だるげに緩んでいた。
僕はその横顔に吸い込まれるように「いいよ」と言った。
「よし、じゃあ今すぐに行こ!」
そう言ってリンは立ち上がった。
確かにいいよと言ったのは僕だが、さすがに今すぐになんて思ってもみなかった。
「今すぐって言ったって、電車を使っても結構遠いぞ? それに今から行ったら帰ってくるのなんて夜に――」
「いいじゃん! 思い立ったが吉日! 後のことはその時になったら考えればいいんだよ!」
そう言ってリンは僕の手を取り、強引に引っ張って立たせてくる。
先ほどの緩んだ気だるげさはどこへやら。リンは期待と興奮で眩しいほどの笑顔を見せてくる。
そんな彼女の顔を見れば拒否する気も起きず、なんとなしに毎度ワガママを聞いてしまうのは僕の悪い癖なんだと深いため息をついた。
「な、なんだよ。本当は行きたくない?」
「いや、そんなことはないよ。いい女とのデートなら歓迎さ」
「またそれか……。じゃあさっさと行こ!」
そういって僕らはスマホで海に行く電車を調べ、駅へと向かう。
平日や時間帯ということもあってか、電車の中に僕ら以外の客はほとんどいなかった。
まぁ田舎のローカル線なんてそんなものか。
「アイスでも買っておくんだった……」
まだ整備されてないのか電車内のクーラーは日光の熱に全く抵抗できておらず、灼熱と化した車内でリンは半ば溶けていた。
「本当だな。だが、だからこそリンの谷間が光っていて!」
「よくそんな元気あるな……。なんでもいいから、この暑さを止めろー! うがー!」
そんな暴れられても、僕にはどうすることもできない。それに暴れると余計に暑くなるぞ。
リンはその事を悟ったのか、座席で横になるとパタッと動かなくなった。
「……おまえはさ、進路どうするか決めてる?」
「は? いきなりなに?」
「いや、暑さが紛れるかなと」
高校2年ともなれば、東京の大学に行くために上京するか、地元で働き先を見つけるなど卒業後に向けて考える時期ではあるが、僕は全く考えていない。
正直、リンとのこの時間が無くなっていく現実を見たくもなかった。
「いや、考えてないな。リンは?」
「……まぁ、いろいろ」
「なんだそれ」
「いろいろって言ったら色々あんの! あー! 全然紛れない! 暑い―!」
何か含んだ言い方をするリンに若干の違和感を覚えたが、すぐに話題は他愛のない雑談へと変わってしまう。
そして電車に揺られた僕らが海に着く頃には暑さも収まり、空は夕焼けに染まっていたのだった。
熱気の籠もった電車に揺られること1時間。人気のない駅で僕たちは降りた。
そこから数分歩けば浜辺に到着する。お盆になれば帰省してる家族などの姿も見られるようになるが、まだ先のため駅前には人気は少ない。地元の小学生らしき子どもたちがシャツや短パン姿で走り回っているくらいだ。むろん制服姿の人間など僕とリンだけ。
「子供は元気だな」
「僕たちもまだ子供だよ」
リンの言葉に苦笑しながら返す。そう言うと「うるせ」とリンに腰を小突かれた。
駅前にあった自販機で炭酸飲料のペットボトルを買い、浜辺へと続くアスファルトの道路を歩いていく。すぐ横には青々とした植物たちが元気に葉を伸ばし、道路を覆い隠してしまおうと画策しているかのようだ。
「というか、海に行きたいって言ってたけど海に行って何するの?」
「いんや、特に何も」
道中でリンに尋ねてみたが返事は簡素なものだった。
「泳いだりとかは?」
「もう暗くなるのに海入ったら危ないでしょ」
そう言うとペットボトルを海に沈もうとしている夕陽に向ける。透明な炭酸飲料に赤い光がキラキラと反射して輝き、彼女の顔を赤く染めている。
そんなリンの顔に少し見惚れつつ考える。彼女の言うことはご尤もなのだが、だとしたら何をしに来たかったのだろうか? 僕には皆目見当がつかなかった。
ちらりとリンの横顔を盗み見ていると、まるで世界に彼女と僕だけになったような気分になった。夕陽に染まる彼女は、本当に美しい。
「なあ」
リンが目を細めてこちらを見る。どこか淋しげなその目線に、僕は目を離せなかった。
「何だよ」
「私が男って言ったらどうする?」
沈黙が流れる。
さざなみがただ揺れて、僕らの世界をなんとか保とうとしていた。
「……は?」
ただほうけている僕に、リンは何も返さない。ただ、足元を見て、砂を蹴っているだけ。
「な、何言ってんだ」
声が裏返る。焦りがぐんぐん膨らんでいく。
違う、こんなことは言っちゃいけない。
「お前、胸あんじゃん。いい胸が」
違う、違う、違う、違う!
口から滑り出る言葉に、どんどん汗が吹き出る。ただでさえ暑くて汗が止まらないのに、いい迷惑だ。
「……ごめん」
リンが一言、ただそう呟いた時、僕は思わずその頼りなさげな気配を抱きしめていた。
「謝るな!」
そう叫ぶと、リンの体がビクッと揺れた。ほんの少しの罪悪感を覚えながら、僕は叫び続ける。
「お前はリンだ! 高峰リンだ! 俺の同級生の高峰リンだ!」
叫びながら、自分が情けなかった。
もうちょっと、気の利いた言葉をかけてやりたい。こんな、小泉構文みたいなセリフじゃない、心動かされる素敵な言葉を。
どれだけ時間がたっただろうか。相変わらず波は揺れ、世界に音をもたらしている。
僕はただ必死に彼女の存在を繋ぎ止めようと、ただ抱きしめている。
「……なあ」
「なんだ」
僕は身じろぎ一つせず返事をする。
「ありがと」
「何もしてない」
リンがクスリと笑う声。その息で僕の横髪が軽く揺れる。僕は何故だが切なくなって、一層抱きしめる手の力を強めてしまう。
「してるよ。ありがと」
空にまばらに散らばる星が、僕らを見下ろしている。
リンはその夜を、後に「第二の誕生日」と呼んでいた。