左眼の記憶
さっきから小さな枝がぶつかりあうような音が左の耳のすぐそばで鳴り続けている。たぶん聞こえているのは僕だけだろう。仕事をさぼって平日の朝から新宿の映画館に入ったのはいいが、冷蔵庫の中のように冷えきった館内にもかかわらず、初老の男がさっきから扇子をパタパタと動かし続けている。その耳障りな音のせいでどうにも映画に集中できない。連日の猛暑日で今日も朝から30度を超えているというから、外の熱気をまとったまま映画館に入ってきたのだとは思うが、映画がはじまってすでに30分が経とうとしていた。僕は軽い苦情のつもりで初老の男のほうに目線を送ってみるが、暗闇の中では何の効果もなかった。
初老の男の横には高級そうな杖が立てかけてあった。杖の柄の部分は暗闇の中でもその黒さが際立つほどに黒かった。僕はその黒さに取り憑かれたように杖の柄から目をそらすことができなくなった。そのままの姿勢で動けずにいると、左の耳に聞こえていた扇子の音がしだいに大きくなり、一気に耳を塞ぎたくなるほどの大音量になった。そして、左半身が自分の体ではなくなってしまったかのような奇妙な感覚が襲ってきた。また、あれが始まったのだ。
茹だるような熱気、吹き付ける潮風、揺らぐ蜃気楼、鋭い悲鳴……目の前が半開きのブラインド越しに見る景色のように霞み、砂嵐がかかる…
それを鋭いクラクションの音が切り裂いて、僕は戻ってきた。映画の中の汽車の警笛の音だった。僕は映画館の真っ暗な床にひざまずいて息を切らしていた。ひどい頭痛と吐き気がした。
ふと見上げると初老の男はいなくなっていた。
「あなたのことが信じられないの。」
「よく言うよ、信じられないんじゃなくて信じたくないだけだろ。」
俳優が女優を一瞥して汽車のコンパートメントを出ていく。
僕は痛む頭を押さえてゆっくり片目を閉じる。少し頭の痛みが和らぐ気がして、映画の色彩や俳優たちの表情も通常通りに見える。何てことはない普通の、穏やかな。
僕は息を吐き、一旦両目を閉じてから、ゆっくりと左目だけを開けた。ぐらっと視界が傾くかのような眩暈と光で刺されるような頭痛がする。だんだん視界が緑と赤に染まっていく。
このままでいると僕はまたあちらに行ってしまう。今度はもう、戻ってこれないかもしれない。
僕は迷って、、、