こうして心置きなく、死ねました。
「おつかれさまでした」
何もかもが失われた白い世界。
私と、一人の女性がいる。
とても美しい。
あらゆる愛に恵まれたがゆえの、神々しさ。
「わずか十六年の生でしたが、清廉な息吹に満ちていました」
その瞳は濡れていた。まるで母が傷だらけの我が子を見るように。
なぜ泣いているのかと問おうにも、声が発せない。
口が、喉が、すべてがひどく凍てついている。
そのとき、彼女の手が私の頬に添えられた。
とても温かかった。体は熱を帯び、唇がぶるっと震える。
「……やはり現世に心残りがあるのね。穢れたままの魂では天国に迎えることはできません」
その言葉に、つっと目尻から涙があふれる。
直前の記憶が、脳裏にちらつきだす。
同時に蘇る、トラックにはねられた痛みも。
「十二時間……。時を巻き戻すわ。それが、限界」
頬を伝う滴は、添えられたままの白い手が受け止める。
「ただし時が巻き戻っただけで、運命に干渉したわけではないわ」
瞬間、私の背後の空間がゆがみ、黒い大きな穴が現れる。
体を蹂躙するほどの風が吹き込んだかと思えば、私はすっと穴に呑まれていった。
「……いってらっしゃい」
目が覚めると、私は冷たいアスファルトの上に倒れていた。頭の奥で鈍い痛みが響くが、どうにかして体を起こし、周囲を見渡す。暗い街路灯の光が差し込む薄暗い通りだった。
それにしても、不思議な感覚が胸を満たしている。死んだはずの私が、再びこの場所に立っている。あの白い世界で会った女性の言葉が、頭の中で反響している。
「十二時間……時を巻き戻すわ。それが、限界」
つまり、今の私はあの運命の日の半日ほど前に戻っていることになる。だけど、彼女の言った通り、「運命に干渉したわけではない」からといって、何も変わっていないのだろうか。このままでは、また同じ運命を辿ってしまうのではないか——
気がつくと、私は震える手でポケットからスマートフォンを取り出し、時間を確認する。午後八時四十二分。
スマホ画面をのぞくと、一件のLINEが届いていた。
それは母親から。
”美優(みゆ)、今どこにいるの? お父さんと一緒に家で待ってるわよ”
娘である自分の帰宅を待つ言葉。
薄れていた記憶が、徐々に形をともなって蘇ってくる。
「そうだ……。私、お父さんと喧嘩して家出してたんだ……」
父と関係が悪化したのは、いつ頃からだったか。
父だけでなく、母にまで汚い言葉で罵ってしまった。
この日、私は家に帰らなかった。
父の、怒りの中に悲しみをたたえた表情。
母の、今にも泣きそうな沈んだ表情。
それが最後に見た両親の顔になるとは、夢にも思わなかった。
「……謝りに行こう」
思い直して、足を帰路へと進めようとしたとき、
「あっれ~、美優じゃ~ん」
頭の悪そうな声が背後から投げられた。
嫌な予感が戦慄となって背中を走り、私はおそるおそる振り返る。
「……遠坂先輩」
明らかに柄の悪い風体の男性だ。
彼は、同じ高校に通う一年上の先輩だったが、一ヶ月前に退学処分となっていた。
……そうだ。今夜は遠坂先輩に自宅に招かれ、記憶がなくなるほどお酒を飲んだんだった。
「このお馬鹿」
先輩は躊躇いなく私を抱きしめた。
「あんた今、とってもおブスよ」
自暴自棄になった私は、慣れない酒に呑まれてしまい、恥の上塗りばかりを繰り返している。
「すみません、勝手に飲んでしまって」
「謝る相手が違うわ、もう今夜はウチでゆっくりお休みなさい」
やっぱり遠坂先輩は優しいな、途端に涙が溢れてしまい、もう目頭がスーパー熱かった。
「えぇー!?年収108万超えたら税金払わなくちゃいけなかったのー?!」
丁度1ヶ月前、先輩は税金未払いの件で職員室に呼び出されていた。
「年末調整、なにを調整するのよー!!」
そして偶然、場に居合わせた私。
「タイガク?えっあたし退学なの!?」
これが遠坂先輩との出会いだった。
ここは先輩が経営しているBAR、ラプンツェル。
「先輩、ご迷惑おかけしてすみませんでした!」
そして私は今まで、バックヤードのソファで寝ていたようで、頬には髪の流線がくっきり染みていた。
「そうねー、勝手に飲んだ分はハンサムの紹介で許してあげるわ!」
その分厚い唇は優しく暖かい言葉を吐き出す。
「それとね、明日の朝すぐに帰りなさい!」
「そういえば香奈(かな)から聞いたよ。親父さんと喧嘩してるんだって? 家に帰れないなら俺ん家泊まりなよ」
言いながら、遠坂先輩は私の腕をぐっと掴む。
親切心からではなく下心からなのは、引き寄せる強い力が物語っていた。
前回の私はその邪な気持ちに気づいていながらも、父親と顔を合わせたくなかったので彼の家にお邪魔してしまったのだ。
なかば強引に酒を飲まさ続けた結果、覚えていることといえば、くらくらした頭で路地を歩く自分、眼前まで迫るトラック、巨体に押しつぶされたときの激痛……
間違いない。このまま遠坂先輩についていけば、同じ過ちを繰り返してしまう。
断ろうにも、下手な口上で拒んだ場合、彼の機嫌を損ねて暴行されかねない。
きゅっと唇を噛みしめる。
香奈に教えるべきではなかった。
小学生からの幼なじみだが、お人好しすぎるところが玉に瑕だ。
遠坂先輩に教えたのも、きっと私が落ち込んでいるから励ましてやってほしいと思ってのことだ。
そこではっと思いつく。
香奈だ!
私はスマホに指を走らせ、口裏を合わせるようにLINEを送る。
「ごめん! そういえば香奈と遊ぶ約束をしてたんだった」