いつかの夢の話
くすくすと、誰かが笑っている。
それは楽しそうな、それでいてこちらを嘲笑うかのような残酷だが無邪気な子供のような声。
「ねぇ君。そんなところで寝てたら危ないよ?」
ポーンという何かの音に被さるように聞こえたその声は笑い声の主のもののようで、その声のあまりの近さに耳がぞわぞわとした。
やめてよと言い身を捩りたいのに口も体も動かなくて、まるで体が人形にでもなったかのようだ。
「ほぉら、目を開けてごらん…良い子だから」
果たしてこの声の主はどんな人物なのだろうか。そう思うのと同時に聞こえた声は甘く優しく、耳を通って頭の中にすっと溶け込んでいく。
だが言葉の優しさとは裏腹に目を軽く圧迫するような感触を感じると、ほぼ無理矢理瞼をこじ開けさせられた。
かなり強引だ。
そんな強制的に急に明るくなった視界の中に飛び込んできたのは、緩くウェーブしたショートの黒髪に整った顔つきをした少女とも少年とも見える子供だった。
黄金色をした瞳は日本人離れしており、キラキラと輝くそこから目が離せない。
「あはっ、起きたんだね。おはよう」
無理やり起こしてきたの間違いでは、という一言は飲み込んでおこう。
にっこりと微笑み目を細める子供の向こうに見える景色は駅のホームのもので、寝室で寝ていたはずなのにと顔を顰めれば、それを見た子供が口を開く。
「僕の名前はみのる。君の名前は?」
「スパシーバ後藤だ」
いきなり自己紹介だと?気味の悪いガキだ。名前を知られるのも気色悪かったので、適当に思いついた名前を投げ返す。みのると言った子供は、なにそれーなどと何がそんなに可笑しいのかクスクスと笑いながら、ベンチの上、上体を起こして座り直した俺の隣に並んで座る。
「あンだ?気安いぞ、ガキ」
「まあまあ、いいじゃない。それに、この駅に関しちゃ僕が先輩だよ、ゴトークン。尊重しておいた方が良いんじゃないかな?」
チッ。唾を吐いて立ち上がる。どこの駅だ?地下鉄のようだが、見覚えがない。看板は何処だ。ホームを歩いて数メートル、その看板には「落窪」と書かれ、奇妙なことにー状況はすでに十分奇妙すぎたがーその前後の駅名が書かれていない。
「無駄なんだよ、ゴトークン。」
声に振り替えると、あの子供がホームの下、線路の上に立ってこちらを見ている。ギョッとして、思わず助け上げようと駆け寄るが、子供はニヤニヤしながらポケットに手を突っ込むばかりだ。
「列車は来ない。時刻表をごらんよゴトークン。列車は来ないんだ。もう何週間も、ひょっとしたら何年も来てない。だからね、ここから出るには列車じゃダメなんだ。改札を通らないと」
子供に似つかわしくない、郷愁と諦観の滲む瞳で、俺の後方、改札出口を見やる。
「だから、ねえ、君、切符は持っているかい?」
「切符だと?」
呟き俺は体をまさぐる。
今気づいたが、寝る前は寝巻だった俺の体には代わりに一着のスーツが着せられていた。
ポケットをまさぐるも中には空になったタバコの箱くらいしか出てこなかった。
「どうしたんだい?ゴトークン、切符はない?」
みのると名乗った少年はニヤニヤ笑いを顔に貼り付けて聞いてくる。
俺は湧き上がる苛立ちと不安から目を背けるように駅の事務室へと視線を向ける。
時折点滅する蛍光灯の照らす先に誰かがいることを期待するものの、事務室は無人だった。
「いや、何も律儀に切符を使わなくてもいいじゃないか」
つまるところ無人の事務室なのだ。
改札をまたぐようにして通り過ぎても咎める奴なんていないのだ。
少なくとも、一人を除けば。
「あっ」と言うみのるを無視して俺は改札に近づき、バーをまたごうと足を上げる。
その瞬間、背筋を何か冷たいものが流れ、全身が何かに掴まれるような感覚を得る。すぐ後ろにさっきまではなかった気配を感じた。そいつは、ちがう、そいつらは、俺のすぐ後ろで俺には聞き取れない呪詛を小声で呟いていた。
俺は足を上げたまま固まらざるを得なかった。
「やめた方がいいよ。あまり彼らを怒らせない方がいい」
みのるの言葉に従い、俺は足を下ろす。地面に触れると同時に嘘のように気色の悪い感覚は消え失せていた。
「彼ら…というには、お前は知っているのか?」
再びみのるの近くに来た俺だったが、みのるは「さてね」と軽く受け流す。
「まあ、気が向いたら教えてあげるよ、それより結局切符はなかったのかい」
「切符も何も、俺は気づいたらここにいたんだ。そんなものは知らない」
「本当に?本当の本当に?隅々まで探したの?」
「ああ」
俺は苛立ち交じりに吐き捨てる。
大体なんで切符の有無ごときでこんなガキに勘ぐられなければならないのだ。
「僕だったら、大事なものなら絶対になくさない、いや、なくしようがない場所にしまっておくけどなー。例えば、靴下の裏とか」
とたん、俺は固まる。
そうだ、俺は昔からなくしそうな小物は靴下の中に入れていたのだ。
恐る恐る靴を脱ぐと何か固いものが入っている感覚がある。
靴下を脱ぐと…あった、切符だ。
しかしそれを見て俺は戦慄する。
印字は残念ながら読めなかった。
なぜなら、まだ乾ききっていない血でべっとりと塗られていたからだ。
ひえっ、と気味が悪くて思わず靴下を投げて
後ずさりした。
「ちょとー、それ一枚しかないんだから大事にしなきゃw」
いつの間にかガキはホームに上がっていたのか、ビビってエビ反りの俺の横をスっと通り過ぎて。地面に落ちた靴下を拾い上げた。
俺の前に切符の張り付いた靴下差し出す顔はまだニヤニヤを笑っている。
俺はイラついて「よこせ!」と言いながら靴下をひったくった。
そのまま勢いよく切符を靴下から剥いだ。
ブチッ
俺は叫びながら素足を抱えて倒れた。 抑える手の中に温かいものが湧き出てくる。
少年がのたうち回る俺に近づいて、それを拾いあげて口に含んだ。
俺の足が親指から踵までまるでビール瓶みたいに割れれていた、親指は倒れた拍子にもげて無くなっている。俺は片手で足を抑えながら地面を伝った血でびちょびちょになった靴下を取り、 もう片方の靴下も脱いで底の厚い皮に引っ付いたミンチを丸めて詰めた。
ガキはもぐもぐと口を動かしている。
半分泣きながら叫んだ 「いてエ畜生、何しやがった!」
ガキはゴリゴリと音を立てながら鼻で笑い、俺をずっと変わらない目で見ている。
「はい、切符w」
ぺっと
ガキが口から何かを吐き出して俺の目の前に落ちた。