墨跡混淆

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1人目

露鵬という男がいる。
彼の本名は吉次郎と言ったが、彼が板切れにほどこした墨の汚れを、何か高尚なもののように扱う数寄者たちが彼の家に詰めかけるようになってから、彼は自らを号して露鵬と言うようになった。
露鵬がその数寄者にもてはやされるようになってから既に五年が過ぎていた。そして、五年も過ぎたというのに、露鵬には何が彼らにそこまで「良いもの」に思われているのかさっぱり理解っていなかった。
彼は、五年前の年末の掃除の際、遊び心のまま、何を描くでも、何の模様でもなく、ただ子供のころ物を墨で汚して怒られた経験を動機に、板切れを汚してみたのだった。彼にとっては一時の衝動の産物に過ぎなかったその汚れた板切れが、どういう経緯でか、商人の三衛門なる人物に拾われ、大坂で高値で売買されているらしいと知ったのが翌年の二月であった。
その三衛門が吉次郎の元を訪ね、あの木切れはまだないかと言ってきたのである。吉次郎は昨年末のゴミのことなどとうに忘れていたから、何のことかわからぬと答えたのだが、三衛門がどうしてもと言うので、そこで板切れに墨を付けると、それを渡して帰らせたのであった。
「妙な物を欲しがる御仁だ」
としきりに不思議がる吉次郎。これが露鵬の最初期の「作品」となった。それから露鵬は、自分でも何が良いのかさっぱりわからぬ「作品」を作り続け、自分には不釣り合いだと内心感じている御殿を建てた。

2人目

露鵬が「露鵬」として生きるようになってから、彼の中には常に拭いきれない違和感があった。五年前のあの晩、ただの衝動で汚した板切れが、今や自分を象徴する「作品」として祭り上げられている。露鵬の名は、もはや彼の本名である吉次郎を忘れさせるほどの権威を帯びていた。

ある日、露鵬はいつものように依頼された板に墨を散らしていた。しかし、その手はいつになく重い。

3人目

露鵬はバケツに墨を流しいれ、どぼりと沈ませてみた。板は真っ黒になり、艶めいた黒色の滴を滴らせる。
「うむ……黒い」
露鵬は黒い板切れを手につぶやいた。やはり何の感慨も湧かない。それをいつものように、拡げた新聞紙の上に放り投げる。そして新たな板切れを手に取ると、今度は手に残った墨をチョンと置いてみた。板の真ん中にちょぼりと小さな点がのこり、板目に進攻しようとでも言うようにジワリと広がり、そして攻勢限界に達して乾ききった。それを先ほどの黒の隣に並べる。
「わからん……」
再度呟いた時、のんきな声が玄関先から露鵬の下へと一直線に走ってくる。
「ごめんくださーい!露鵬センセ、新作の進みはどうですか?」
三衛門である。断りなくガラリと戸を開いてズカズカと上がってきた三衛門に露鵬は半ば倦みながら、新聞紙の上の「作品」に顎をしゃくる。
「わあ!今回も素晴らしいですね!この黒!これは世界でござんしょう!?世界を飲み込むほどの自我が濡れながら乾いてゆく!この瞬間にしか味わえない美の術理!しかも乾ききるとまた違う表情を見せるに違いありません!」
三衛門は手を叩きながら黒を指さしながらはしゃぎ、そして点の方の板切れを手に取る。
「この点!これはつまり大宇宙に対する小宇宙!今度は内省で来られましたね、なかなか強かでございます!そして自我は完全な円ではなく、じわじわと墨が柾目に染みるがごとく三次元的な展開をみせると!なかなかに高尚な味付けでございますよ!」
三衛門が何を言っているのかさっぱりわからぬ露鵬はため息をつきながら、「何でもいい。乾いたら持って行ってくれ」と言って、墨で汚れた手を拭った。
「あれ、露鵬センセ、どうなすったんです。なんだかしょぼくれてらっしゃいますが」
「うむ……」
露鵬は自らの心中を話すべきか迷った。

4人目

露鵬は三衛門の言葉を右から左へ聞き流しながら、黙って板を拭き始めた。三衛門は新作を新聞紙に包みながら、次の依頼を口にする。
「来月はまた新しい試みをお願いしますよ。何かこう、『退廃的な虚無』を感じるような…」
「三衛門。あんたは俺の何を見てるんだ?」
露鵬の低い声に、三衛門の動きが止まった。

5人目

「何、何を見ているって……そりゃあ、芸術家!新たな美の基準の探求者!鄙にも稀なる……」

「もういい」露鵬は三衛門のいつもの調子を遮った。「もういい。やめろ」

三衛門は愈々不味いことを行ったと思いながら、両手を宥めるように前に出して手のひらを見せる。

「センセイ、悩みがおありなら、不肖この三衛門、センセイに御恩のある身でございます。何でもご用命ください」

「俺は……俺はお前が何を言っておるのかわからんのだ。なんだ、宇宙がどうとか、自我がどうとか、退廃だ、前衛だ、なんだかんだ、お前の話す言葉の意味が分からん。いや……」露鵬の視線がさまよう。「俺が作っているこれが、何なのかわからんのだ。この……何かわからぬ、ただ金になるということだけがはっきりしているこのこれが」

「ははあん、センセ、つまりセンセイはこれが小切手か何かの様にしか思えないから、アタシが金目当てで付き合ってるんじゃあ無いかと思ってらっしゃる」

「違うのか?」

「センセイ、あのね、そんな魂胆なら最初からもっとわかりやすい美術品を扱いますよ。あたしゃ商売人ですから、売り物は売りやすい方が良い。そうでござんしょ?それ以上にセンセイのこれに惚れてるから、センセイの所に通ってるんじゃないですか」

6人目

露鵬はただ三衛門の言葉を聞いていた。三衛門の言葉は、露鵬の心の中に、まるで水滴が落ちるように、静かに、しかし確実に染み込んでいった。

「センセイの作品には、あたしの心を揺さぶる、何かがある。それが何なのか、わからない。でも、それでいいんです。わからないからこそ、センセイの作品に惹かれるのかもしれない」
三衛門は露鵬の隣に座り、そっと手を握る。露鵬は三衛門の手のひらの温かさを感じ、わずかに震えた。