ダークスイムクラブ
東京某所の高層ビルの地下に一般には知られていない25mプールがある。そのプールは「ダークスイムクラブ」なる組織が主催する非公式の競泳大会専用に作られた。毎週金曜日の夜に現役トップや第一線から退いた元選手、水泳が特技という著名人など女性スイマーが公式の大会ではありえないレギュレーションで鎬を削る。レースを見ることができるのはオンラインで登録した会員のみ。会員はレースの勝者を予想する賭けにも参加できる。そして参加する選手にはギャラの他に着順に応じた賞金も贈られる。
そんなアンダーグラウンドの舞台に世界的なトップスイマーの1人に数えられる竹内里帆(たけうち・りほ)が参戦する。
その日、里帆は静かに更衣室のロッカーを開けた。漂う塩素の匂い、遠くから聞こえるプールの水音。それは慣れ親しんだ匂いと音のはずなのに、どこか違って感じられた。ここは、これまで彼女が泳いできたどんなプールとも異質な空気をまとっていた。
「里帆ちゃん、今日からよろしくね」
背後から優しい声がした。振り返ると、そこには引退した今もなお伝説として語り継がれる元スイマー、星野マキが立っていた。彼女は里帆の高校の先輩であり、里帆がこの世界に入るきっかけを作った人物だった。
「マキさん、お久しぶりです。まさかここで会うとは…」
「ここなら稼げるって話、聞いたでしょ?私たちみたいな選手は食べていくのも大変。でもここは違う。実力さえあれば、いくらでも稼げる。賭けの胴元からもらうギャラと、レースで勝った時の賞金。そして、会員向けの限定イベントに出演したり、ファンクラブを作ったり…。ビジネスチャンスは無限にあるわ」
金のことしか言わないマキに、里帆は複雑な感情を抱いた。
彼女がここに来たのは、金のためではない。いや、正確には違う。金は必要だ。
なぜなら母が後期の胃癌で大学病院に入院しており、高度な治療にはそれなりのお金がかかる。企業チームに所属してそれなりのスポンサードを受けているとはいえ、理帆は金銭的にそれほど余裕が無いのだ。しかし真の目的は、三年前に失踪した金メダリストで日本代表のスタッフでもあった父の行方を探すこと。
父の情報を集めるうちに、この非公式のスイムクラブの事を知ったのだ。
「じゃあ先に行ってるね」
マキの声に理帆は我に返った。
「はい、すぐ行きます」
慌てて返事を返す。
マキは今はこの組織の人ではあるが、大学の先輩でもあり知らない仲ではない。いざとなれば力になってくれることもあるかもと考えると、出来るだけ良い印象を持ってもらうに越したことはない。
「ラスト!」
マキが更衣室のドアを開けた時、水音に交じり不意に男性コーチの声が聞こえた。
父とは違う若く張りのある声だが、この声の主も理帆の知る代表の元スタッフで間違いなかった。
この大会に参入する闇のチームにコーチとしてヘッドハンティングされたのか、それとも父同様にこの人も失踪者なのか。その辺りのことはまだ分からないが、一つ一つ調べ上げる必要がありそうだ。
更衣室を出ると、プールサイドの湿った空気が里帆の肌を包んだ。薄暗い照明の中、水面が妖しく揺れている。練習に励む数名の女性スイマーたちの合間を縫って、里帆はプールの端に立つ男性コーチの姿を捉えた。
黒い競泳パンツ一枚のその体は、均整の取れた筋肉に覆われ、年齢を感じさせない引き締まり方だ。短く刈り上げられた髪、鋭い眼光。やはり、紛れもなく黒沢コーチだった。彼は現役時代、日本代表の主力選手として活躍し、引退後は日本代表のコーチを務めた。里帆の父とも親交が深く、何かと一緒に行動を共にしていた。
里帆は黒沢に接触しようと思った。
(今だ)
その時、里帆の行く手を遮るように、一人の大柄な男が立ちはだかった。
男はスイマー用というにはあまりに布面積の少ない、蛍光イエローのビキニを穿いていた。
競泳水着というよりも挑発的な下着に近いその格好は明らかに異質だ。
筋肉質の体躯は鍛え上げられているが、スイマー特有の流線型ではなく、岩のようにゴツゴツとしている。
表情はなく、ただ里帆を見下ろしている。
「新入りのお嬢ちゃん。コーチに話があるなら、練習が終わってからにしろ。今は休憩時間じゃない」
里帆は咄嗟に理解した。このクラブはただの非公式チームではない。この男は監視役だ。黒沢コーチに不用意に接近することは、組織に里帆の真の目的を見抜かれることを意味する。
「すみません。更衣室のロッカーの鍵をどこかに落としてしまって。マキ先輩に聞こうかと…」
里帆は反射的に嘘をつき、監視役の目を逸らすように、マキが懸命に泳いでいる方向へ視線を送る。
男は里帆からマキそして黒沢へとゆっくり視線を動かした。
その視線には、全てを見透かすような冷たさがある。彼は再び里帆に目を戻した。
「早く済ませろ。ここは私的なおしゃべりをする場所じゃない」
里帆は身体の自由を奪われたかのように、そのままマキのいる方へと向かうしかなかった。水しぶきを上げながらターンをするマキに、大した用事もないのに平静を装って話しかける。
その間もあの際どい水着の男の視線がチクチクと背中に突き刺さるのを感じた。
(いけない。軽率だった。この組織は、私が想像していたよりも厳重な統制下にある。あの男は黒沢コーチを監視している。だから私に話しかけられても何も答えられない状況なんだ)
里帆はマキから適当な返事を聞き出すと、もう一度黒沢の方を見た。黒沢は、一度たりとも里帆の方を見ようとしない。まるで、「俺に関わるな、ここで俺が口を開けば、お前も俺も危ない」と言っているかのようだ。
里帆は深呼吸をした。監視役の男のいる前で、焦る姿を見せてはならない。