時間の時計塔
薄明かりが街を包み込み、通りを歩く人々の影が長く伸びていく。その街には、誰もが避ける一角があった。空が薄曇りで、風が冷たく感じるその場所には、古びた時計塔がひっそりと立っていた。
その時計塔の周りには、奇妙な噂が流れていた。時計は、時折逆回転を始め、まるで時間そのものが歪むかのような錯覚を生むのだと言う。だが、誰もその正体を確かめようとはしなかった。
ある晩、ひとりの少女がその場所に足を踏み入れた。名前は「凛」。家を出て、ただひたすらに歩き続けていた。理由はわからない。ただ、どこかに自分を見つけたくて、その街の隅々を歩いてみることにしたのだ。
時計塔の前に立つと、風が一層強くなり、凛はその冷たさに背を震わせた。時計の針は正確に動いているように見えるが、その瞬間、ふっと時計の針が逆回転を始めた。凛は目を見開き、息を呑んだ。
「また…始まったの?」
時計塔の音が止み、静寂が街を支配した。その瞬間、凛は耳に何か聞こえたような気がした。それは、遠くから聞こえるかすかな歌声のようだった。
「誰…?」
凛はその声に導かれるように、時計塔の裏へと足を運んだ。そこには、かすかな光が漏れていた。光の先に見えたのは、古びた扉だった。扉には錆びた金具がついており、開けるのは難しそうだったが、凛はその扉を押してみた。
扉が音を立てて開き、目の前に広がったのは不思議な光景だった。薄霧が立ち込め、空間はどこか現実とは違うように歪んでいた。遠くの空は鮮やかな紫に染まり、空中を漂う無数の光の粒が、まるで星のように瞬いていた。
その中に立つのは、一人の青年だった。彼は微笑んでいるが、どこか儚げで、目がどこか遠くを見つめているようだった。
「君が来るのを待っていた。」
凛はその言葉に驚き、足を一歩踏み出した。彼の姿がだんだんと明瞭になり、彼の目が凛を見つめた。
「ここは、時間が流れない場所だ。」彼は続けた。「そして、君の心もまた、ここで休むことができる。」
凛はその言葉を聞き、心がふっと軽くなったような気がした。でも、どうしてここに来たのか、何が起きているのか、わからないことばかりだった。
「私は…誰なんだろう。」凛は呟いた。
青年は優しく微笑みながら答えた。「君は、まだ自分の名前すらも忘れてしまったのかもしれない。でも、それでいいんだ。ここでは、過去も未来も、ただ『今』が全てだから。」
凛はその言葉に従うように、目を閉じてみた。たった今、この瞬間が全てだと感じる。時計塔の針が再び逆回転し、世界が歪みながらも、凛の心は少しずつ落ち着いていった。
「ここにいる限り、君は何も失わない。ただ、忘れるだけでいい。」
それは、もはや失われた記憶を持つ者への優しい言葉のようだった。
凛は静かに頷いた。そして、その幻想的な世界で、彼と共に時間を超えて過ごすことを決めた。